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AFV模型/M4シャーマン戦車 Posfie
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M36の車体右側面後方のフットマンループ。M10A1からM36への改修時に追加されたもので、工場によって取付位置に違いが有ります。 1枚目はフィッシャー製T71。フィッシャーは同社製M10A1の最終生産分の300輌をT71/M36に改修しました。これらは極初期の量産車で、側面ボスが廃止されているのが特徴です。 2枚目はマッセイ・ハリス製M36。側面ボス付きのフォード製M10A1車体で、フットマンループはボスを避けて前寄りに取り付けられています。タミヤのキットはこの仕様です。マッセイ・ハリスはフィッシャー製M10A1も改修していますが、数は比較的少なかったのでは無いかと思います。
2 months ago
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about 3 hours ago
1日1ミリ。ノルマンディの迷彩実験。ドイツ第2装甲師団の15cm歩兵砲自走砲グリレH型。昨日のスプリンター迷彩の車両と同じ部隊ではあるが、パターンは大きく異なっている。刷毛塗りもしくはマスキングによるハードエッジの色彩分割にスプレー塗装のストライプを重ねている。作業工程的には同じでパターンのバリエーションになる。 写真は"PANZERWRECKS 11 Normandy 2"からの引用になるが、同書に掲載の別写真でこれに似たパターンの別車両の存在も確認されている。この部隊はまるで迷彩の研究でもしていたのかのように所属車両(ヴェスぺやIII号着弾観測車)で違うアレンジの迷彩も試みられている。
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about 15 hours ago
44年後半からパンターの迷彩もボケ足の短い迷彩に切り替わる。MHN社のストライプ柄の迷彩は刷毛でもよさそうに思うがスプレー描きだ。MAN社の迷彩は末期には刷毛塗りのハードエッジになる。しかし工場が停電でコンプレッサーが使えなかった、オイルの節約のためエンジンコンプレッサーが回せなかった、と帰する説には難があると思っている。戦場での人の生き死にを天秤にかけるに足る理由には到底なり得ないだろう。むしろ塗装の道具を問わずコントラストが強くなる塗り方が推奨されたことの帰結ではないか。目的は大柄な塗り分けにして遠方からの視認性を低くするパターンであること。それなら、この問題は簡単に解ける。
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1 day ago
1日1ミリ。イギリス軍の記録写真:IWM (STT 7474) 1944年夏にノルマンディで鹵獲された15cm歩兵砲搭載自走砲グリレH型。ドイツ第2装甲師団所属の車両。装甲板に描かれた3色迷彩は刷毛塗りのハードエッジパターンに小さな楔状の三角形をステンシルでスプレー描き。第21戦車師団だけでなく部隊を超えて砲兵車両にハードエッジ迷彩が採用されている。スプレー吹きも併用していることを見ると単純にコンプレッサーがなかったからという理由に帰することこともできない。 推測の域を出るものではないが、航空優勢を保てない状況で遠距離からの迷彩効果を高めるための措置だろう。
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2 days ago
1日1ミリ。1944年6月のノルマンディ。ボカージュに姿を隠して応戦するドイツ軍の自走榴弾砲10.5cm leFH 18(Sf.) auf Geschützwagen 39H(f) 。フランス軍から鹵獲したオチキス軽戦車H39のシャーシに榴弾砲を搭載した改造車両で、第21戦車師団の第200突撃砲大隊はこのような改造自走砲で編成されていた。 写真が砲弾発車時の空振でブレてしまっている。ハードエッジの迷彩が描かれた車体の国籍マークの十字がダブって見えるのは射撃の振動で車体も大きくスイングしているからだろう。
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3 days ago
1日1ミリ。1944年6月10日のノルマンディ。ランヴィル近郊での反撃に出るイギリス第13/18王立軽騎兵連隊本部所属のシャーマンIII(M4A2) 。車体後部には海中渡渉用の排気延長ダクト(ウェーディングキット:上部ダクトは取り外して基部が残ってる) ジェリ缶はドイツ軍のジェリ缶をコピーしたイギリス軍のもの。サイズや仕様、プレスパターンも変えずに完コピして、戦場で敵味方同じものを使うという「汎用性」を重視したのが面白い。 牧草地にホルサグライダーの残骸が見える。一面に咲く白い小さな花はシロツメクサだろうか。 IWM (B 5345)
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4 days ago
1日1ミリ。1944年6月6日のノルマンディ。ソード・ビーチに上陸したイギリス軍は当日に唯一対応できたドイツ第21装甲師団のIV号戦車隊に一時海岸近くまで押し戻されてカーン市街の奪取を断念する。詳細な日時は不明だが、迎撃に備えてボカージュに潜む第21戦車師団のIV号戦車の写真。背後の牧草地に牛が写っていることからすると空挺部隊のホルサグライダーが降下したエリアにも近い。 Bundesarchiv Bild 101I-493-3365-31
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5 days ago
1日1ミリ。1944年6月6日午前8時40分頃、ノルマンディのソード地区。朝靄に霞む海岸に先行上陸したイギリス第13/18王立軽騎兵連隊のシャーマンDD戦車と第79機甲師団の特殊装甲車両が密集して展開している。写真の中央がフロートスクリーンとスクリューを備えたシャーマンDD、その右にいるのがエンジンデッキの吸排気口に延長ダクト(ウェーディングキット)をつけたシャーマン。 ノルマンディの海岸は遠浅の砂浜で揚陸艦が接岸できないため、上陸作戦に参加した車両は水深1mくらいから自力で走行できるように渡渉キットを装備している。 海岸沿いの家は別荘だろうか。内陸の素朴な石積みの農家と違って瀟洒な造り。
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6 days ago
1日1ミリ。1944年6月6日のノルマンディ。「ソードビーチ」に上陸して海岸沿いの街(Rue de Riva-Bella)に展開するイギリス第13/18王立騎兵連隊B中隊のシャーマンDD(水陸両用戦車)畳まれたキャンバス製のフローティングスクリーンと車体後部のスクリューが写る。まだ朝霧が残るのか木々が白く霞んでいる。小走りのイギリス兵の様子から戦場の緊迫感が伝わってくるが、写真の粒子の荒れ”フィルムグレイン”がその雰囲気を強調している。 前日までの荒天でわずかな天候の回復の時間を狙って行われた上陸作戦の様子がよくわかる。霧が濃く光量不足の中でシャッタースピードを上げて撮ったフィルムの質感だ。
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7 days ago
1日1ミリ。1944年6月10日、ノルマンディのランヴィル付近で着陸に失敗したホルサグライダー。手前はイギリス第13/18王立騎兵連隊B中隊のシャーマンDD(上陸作戦用の水陸両用戦車)、上陸時に使ったキャンバス製のフローティングスクリーンを畳んで、予備履帯や土嚢を積んで装甲強化を図っているが、渡渉時には無駄に重量を増やしたくないだろうからこれは後で積んだものか。予備のスプロケットを機銃口の穴にかけて邪魔にならないようにしたのは悪くないアイディアだ。 シャーマンDDのベースはシャーマンIII(M4A2)だろうか、車体のディテールが隠れてしまって自分の知識での解読はこれが限界。
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10 days ago
昨日の東京AFVの会で単品部門1位をいただいてしまいました。写真の雪道ベースとカボチャの兵士がアイキャッチになってますね。多くの人に見ていただけて、当日の朝ギリギリまで諦めずに作り込んだ甲斐がありました。ありがとうございます。
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12 days ago
1日1ミリ。1944年7月10日、ノルマンディの要衝サン=ロー (Saint-Lô)付近にてドイツ軍の戦車隊(おそらく戦車教導師団)に砲撃を加えるアメリカ軍のM10駆逐戦車。 曇天なのか夕方なのか、光量が落ちた中で砲撃の瞬間を捉えるためにシャッタースピードを上げて撮影したものをフィルム現像の際に増感処理を行ったため、フィルムの粒子が荒れた感じに写真が仕上がっている。 モノクロフィルムの増感による「フィルムグレイン」がざらりとした戦場の臨場感を伝える。フラットな粒子が写真から物質感を奪い時間感覚を与える効果は、ロバート・キャパが写したノルマンディ上陸の有名な写真でも使われている。
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13 days ago
1日1ミリ。1944年8月7日、ノルマンディーのサン=ロ付近に放置されたドイツ軍IV号戦車は戦車教導師団所属のIV号戦車514号車。H型(krupp車体)の後期生産型で車体側面、砲塔シュルツェンにツィメリットコーティングを施しているせいか砂塵が付着して迷彩塗装が判然としないもののノルマンディ戦でよく見られるオリーブグリーンとロトブラウンの細吹きパターンが確認できる。砲身はダークイエローではなくグレーの耐熱塗装の上から迷彩をかけている感じか。予備転輪のゴムの内側の鋼製建具リムは錆止めペイントのままのようだ。カラーフィルムだとそうした情報が見える。
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14 days ago
1日1ミリ。1944年8月ノルマンディーのサン・ランベール・シュル・ディヴ(Saint-Lambert-sur-Dive )カナダ軍のサウスアルバータ連隊のシャーマンV(M4A4)は予備履帯と転輪を積んで昨日のカラー写真の車両とほぼ同仕様(履帯はラバータイプのT48)。ドイツ軍のIV号戦車は1-SS LSSAH師団のH後期型(Krupp車体)743号車。 どちらの車両も砲塔に火災の影響があるようで塗装が判然とはしないが、シャーマンのハッチ周りのオリーブドラブがIV号戦車の車体前面のダークイエローと同じ明度に見えるところだ。カラーフィルムと違って白黒ネガでは埃と塗料の光沢で明るく写る傾向がある。
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15 days ago
1日1ミリ。1944年7月28日。第4カナダ機甲師団第29偵察連隊(サウス・アルバータ連隊)のシャーマンV(M4A4)のオリジナルのカラーフィルム。コダクロームの色調だ。 鋳造のドライバーフードのエッジ部分に塗料の光沢の反射が読み取れるが、車体の傾斜部分は白く砂埃をかぶっていて、これが白黒写真なら光沢なのか砂埃かは判然としなくなるだろう。3ピースの鋳造デフカバーの表面に製造時にディスクサンダーで均した切削痕が残っている。このデフカバーの辺りの塗装には光沢の反射が顕著ではないので、一見すると艶消しのようにも見えるが、履帯の金属の地肌も特に光って見えている訳ではないので、一概には判断できない。
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16 days ago
1日1ミリ。第二次大戦当時、ドイツではアグファーのカラーフィルムが個人で普段使いできるほど普及していて、前線でも個人のカメラで撮影した写真にはカラーフィルムのものが多い。しかしこれをプリントするには(ポジペーパーが普及していなかったため)カラーポジを白黒ネガにデュープしたものからプリントした白黒写真が配られたという。 そうした経緯によるカラーポジと同一カットの白黒ネガの紙焼きを比較するとフィルムによる明暗の再現力がよくわかる。ハーフトラックのRAL7021で塗装された車体はカラーポジでは黒く沈んでいるが白黒ネガではラティチュードの広さにより明暗が平均化して明るめのグレーで拾われている。
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17 days ago
1日1ミリ。滝口コレクションのカラーフィルムから。1941年夏のロシア戦線。II号戦車の砲塔後部に描かれる髑髏マークの第18装甲師団。中隊ごとに白、黄色、赤と変わる縁取りは黄色だろうか(白ではない)晴天下、車体の塗装(RAL7021 DunkelGrau)は黒に近い発色に落ちている。砲塔後ろのヘルメットはブラックグリーンであろうから、これも背景に合わせた露出の関係で相対的に暗めに落ちているから、実物よりは黒く写っていると考えた方がいいかもしれない。 遠景の畑の明るい部分は収穫前(or刈取り後)の麦畑だろうか。冬小麦は7−8月下旬が収穫期になるのでその頃になると麦畑は金色に変わる。
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18 days ago
1日1ミリ。滝口氏のフィルムコレクションから。1940年6月、フランスに侵攻するドイツ軍 第5戦車連隊のII号戦車C型。砲塔周りは塗装の光沢による反射が読み取れる、砂埃で白くなったフェンダー。エンジンデッキに積まれた木箱の上の迷彩布はテントの設営に使うツェルトバーンだろうか。塗装が剥がれたアルミの飯盒、キャンバス地のザック。カラーフィルムだと色と素材の情報量は飛躍的に増える。 車体側面に描かれる国籍マーク(バルケンクロイツ)がアンテナケースがあるために分割して描くところまではよくある話なのだが、ケースの角度に沿って下半分が斜めに傾いて描かれてるのが、そうなってしまった感があってちょっと面白い。
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19 days ago
1日1ミリ。滝口氏が公開しているアグファのカラー写真コレクションから。1939年ポーランド戦役の1号戦車B型。RAL7021(Dunel Grau/PanzerGrey/ジャーマングレー)は現在のRALではブラックグレーと呼び替えられているので分かるようにほとんど黒に近いグレー。これが屋外の強い光の下ではミディアムグレー程度の色で見えるはずなのだが、アグファのカラーフィルムに写るRAL7021は黒に近い発色を示す。モノクロのネガフィルムに比べてラティチュードの狭いカラーポジの場合、明るい背景に露出を合わせると明度の低いRAL7021は実際の見た目よりも黒く落ちてしまうことによるものだ。
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20 days ago
スケールエフェクトとは縮尺が小さくなるにつれて色の明度を上げで塗る必要があるという理論なのだが、これはオカルトだと考えている。 どこを探しても明快な筋立てで説明できる人間がいない。 定量化の試みもないわけではないが、艦船モデルのような大きな構造物を離れて眺める時に空気に霞んで白っぽく見える話くらいにしか説明ができない。 ちょっと前を見てみればすぐ分かる話だ。10メートル先で微笑む友人が明るく見えたりするとこがあっただろうか?
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21 days ago
1日1ミリ。ヒューゴ イェーガーのカラーフィルムから。1940年5月15日、オランダがドイツに降伏した日の撮影。ユトレヒト郊外のレイスオールト(Rijsoord) ドイツ軍の戦車はIII号戦車E/F型。カラーフィルムなのでマフラーの熱サビの具合などよくわかる。車体の塗装はデュンケルグラウ(RAL7021)だが、完全な艶消しではなく3分ツヤ程度。砲塔後部の傾斜面と車体後部の傾斜が塗料の光沢で明るく見えている。これがモノクロ写真だと車体後部は光沢面と認識できずに「巻き上げた砂塵でバルケンクロイツが霞んでいる」というキャプションがつくのだろう。カラーだとRAL7021は黒に近いグレーに発色する。
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22 days ago
1日1ミリ。引き続きヒューゴ・イェーガーの写真から。1940年5月、ベルギー国境付近ソール=ル=シャトーで放棄されたフランス軍のB1 bis。車体側面の装甲をよく見るとオリーブグリーンとブラウンの2色迷彩が施されていることが微かに分かる。塗料は完全な艶消しではなく三分ツヤくらいだろうか。ハッチの周りには反射があり、車体側面全体が色被りしているように見えるのは塗料の反射によるものだろう。光沢のあるマフラーカバーのエッジ部分のトーンと同じだから、そのくらいのツヤがあるということだ。 カラーポジは光によるトーンの変化を拾うので写真に写る色調の変化が大きく、色の濃淡と光の反射の違いを識別しやすい。
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23 days ago
1日1ミリ。昨日のカラー写真と同じオチキスH38/39 no.40824のモノクロ写真があった。道路脇にスタックした状態で時系列的にはこちらが先だろう。横の空き地に移動させた後にカラーで撮影している。 天候が違うので単純な比較はできないものの、モノクロネガフィルムのラティチュードの広さがわかる。カラーポジフィルムのように反射の強い部分が白トビせず、砲塔防盾のバッスル上面の塗装の光沢も明るい色調の中にディテールを失うことなく描写されている。砲塔のエッジの反射もグレートーンに収まっている。 AFVモデリングで支配的な「艶消し塗装」がモノクロフィルムの描写に習慣づけられたものだということに気がつく。
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24 days ago
1日1ミリ。ドイツ人写真家ヒューゴ・イェーガー(Hugo Jaeger)が撮影したカラー写真。 1940年5月、フランス北部のアルデンヌ地方だろうか。オチキスH39を写したアグファのカラーポジフィルムには塗装の光沢が捉えられているが、これはカラーフィルムが記録する質感だと思う。モノクロで撮影してもこのようには光沢が写らない。ラティチュードが広いモノクロネガフィルムには明るい部分も白飛びせずにそこそこのディテールが写せる。 写真を読む意識も注意が必要だ。カラーの白トビは「反射」と認識するように習慣づけられているが、モノクロでは同じ部分も「塗装の褪色かうっすら砂埃を被った」と読み取ってしまう。
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25 days ago
1日1ミリ。ドイツのノルウェイ進駐に対抗して送られた連合軍のオチキス軽戦車。イギリス兵と会話するフランス兵とポーランド軍(独立ポドハランライフル旅団)兵士。 オチキス戦車は単砲身の21口径37mm砲SA-18のH38型(タミヤのキットは長砲身33口径SA38のH39型) フィヨルドの小さな船着場なのだろうか。水辺に続く道に並ぶ丸太小屋の屋根に草が生えている。これはノルウェイでは一般的なものだという。 写真:IWM( N 229)
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26 days ago
1日1ミリ。1940年5月のフランス北部の街だろうか。放置されたフランス軍軽戦車、左はルノーR35、右はオチキスH39。フランス軍の軽戦車は2台一組で行動することが多かったのか、こうした写真をよく目にするのだが、ルノーとオチキスのバディは珍しい。迷彩パターンも全く違うことから、残存部隊で車両を寄せ集めた臨時編成なのかもしれない。 奥の建物は塗り壁に窓を白く縁どるフランスの田舎でよく見かけるスタイル。3軒それぞれ似ているようで窓周りの意匠のルールが微妙に違ってたりの三者三様で面白い。 街路の縁石はオチキス戦車の辺りに排水の溝蓋があるのか、そこに向かって路面に勾配がつけられ、雨水に濡れている。
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27 days ago
1日1ミリ。1944年8月のパリ解放。17区のサントゥアン(Saint-Ouen)で自由フランス軍(FFl)に鹵獲されたドイツ軍の工兵用装甲車:Pionier Panzerwagen auf SPW S307(f)。元はフランス軍のソミュアMGCハーフトラックを1940年に接収してアルフレート・ベッカー少佐がパリの改造工場で装甲車に仕立てたもので、その多くはノルマンディ戦に投入されている。 ベッカーの改造車両のうち小数は工場に残されていたのかパリ解放時の写真でも時々見かける。左の建物にはロレーヌ十字の旗。その隣の店はレストランであろうか。そんなに繁盛はしなかったのか現在は青果店に変わっている。
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28 days ago
1日1ミリ。1945年8月、パリ市内を牽引されるドイツ軍の火炎放射戦車 Pz.Kpfw.B2 (f) ( Bis 740 (f))。フランスのChar B1-bisを1940年にドイツ軍が鹵獲して火炎放射形に改造したもので後部に大きな装甲燃料タンクを装備している。 牽引する車両には自由フランス軍(Forces Françaises Libre,FFL)のロレーヌ十字が描かれている。ジャンヌ・ダルクの象徴でもあり、アルザス・ロレーヌがドイツに併合された時代にも国土回復のシンボルだった。フランス開放に参加した自由フランス軍兵士の多くは海外の植民地出身で1944年までパリを見たことのなかったという。
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29 days ago
1日1ミリ。1940年5月17日、ベルギー国境から40kmほど進んだフランス北部の小さな街ギーズ(Guise) の街角。トランスミッションの故障で放置されたフランス第2戦車師団第8戦車大隊のB1-bis戦車260号車。 少し鄙びた感じではあるがパリを思わせる街角。看板にConfiserie(キャンディ)Glaces(アイス)Patisserie(ケーキ)の文字が読み取れる。窓ガラスにはガラスの飛散対策でテープを蜘蛛の巣の形に貼っているのが面白い。 この街角は現在もほとんどそのままの店構えで残っている。この洋菓子店も戦後80年を過ぎても同じ姿で営業している。
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朝鮮戦争休戦後、所沢兵器分廠に集積されているM36。1954年9月29日撮影。 手前の個体は車体右側面最後部下側のボスが削除されており、且つE9仕様では無いことから、ALCO製M36 1944年10月~12月生産車(フォード製M10A1車体)と推察。主砲はシングルバッフル型マズルブレーキとエバキュエーターを備えた戦後仕様のM3A1又はM3A2に換装。車体前面には前方機銃ソケットが追加されているようです。これらの車輛がその後、どうなったのかは不明です。屑鉄用として民間に払い下げられて解体されたのか、あるいは韓国軍に供与されたのかも知れません。
30 days ago
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about 1 month ago
1日1ミリ。45年2月、シュリーファースミューレ(Schriefersmühle)のB57沿いのESSOのガソリンスタンドの近くと思われる。路上に放棄されたIII号突撃砲は砲塔天板のピルツ(簡易クレーン用台座)の数が三個から五個に増えた44年10月以降のアルケット社生産車。鋳造の防盾には何やら動物の顔らしきものが描かれている。エンジンデッキに荷物を積めるだけ積んで、戦闘室天板上に載ってる小さなバスケットは何を入れているのか。 投降したドイツ兵の後に見える電柱はドイツ国内でよく見かけるタイプ。
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about 1 month ago
1日1ミリ。1945年2月、B57沿いのシュリーファースミューレ(Schriefersmühle)に到達したアメリカ軍部隊。車体前面に土嚢を積んだM36はフェンダーのヤレ具合など先日の写真と同一の車両。平原の中の離れ小島のような小さな集落を制圧して、次の目標地点の様子を探っているのか。 トラスを組んだ送電用の鉄塔は現在もこのスタイルものが付近に点在する。建物は手前を増築したのか壁の仕上げが違っている。簡易なハーフティンバーとレンガ積みを組み合わせた工法がドイツとオランダの折衷様式になっているところに地域性が出ている。 その向こうに先日の写真に写っていたESSOのガスステーションがある。
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about 1 month ago
1日1ミリ。引き続きB57沿いの風景。平原に放置されたドイツ軍8.8cm PaK 43/3。ヤークトパンターに搭載する砲架をそのままコンクリートの台座に据えただけの簡易トーチカだったようだ。本来はドイツ国境地帯の防衛用にRegelbau677と言われる専用のコンクリート掩体を500基ほど作る予定だったらしいが殆どが完成せず、大半はこのような露座のトーチカとなってしまったようだ。 周囲に何のシールドもなく、砲座の周りには他陣地との連絡と待避用の塹壕を掘っただけのお粗末なもので何とも切ない。
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about 1 month ago
1日1ミリ。1945年2月。ドイツ国内、メンヒェングラートバッハ(Mönchengladbach)に向かう街道(現在のアウトバーンB57)の並木が見える。靄の立ち込める平原に展開するアメリカ軍戦車部隊のM36とM8装甲車。M36は足回り、駆動輪のスプロケットが穴あきタイプ、VVSSサスペンションはリターンローラーアームが水平の比較的初期のタイプか。オープントップの砲塔には機銃周りにスリット付きのシールドが追加されている。(すみません M36のこと何もわからん)
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about 1 month ago
1日1ミリ。1945年2月。ドイツ国内、アーヘンからメンヒェングラートバッハ(Mönchengladbach)に向かう街道(B57)沿いのガソリンスタンド。 サービスルームの壁にあるSTANDARDとESSOのロゴからドイツアメリカン石油系列(DAPOLIN、Standard Gasolineを経て1938年からESSOブランド)であることがわかる。 スタンドにはアメリカ軍のM3ハーフトラックとジープ。街道を進む戦車隊の先頭はM36B1(M4A3車体)だろう。 道路脇に放置されているのはソ連製52-K 85mm高射砲 M1939。ドイツ軍がロシア戦線で鹵獲して使用していた。
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about 1 month ago
1日1ミリ。1945年2月。連合軍はドイツ国境を超える。 デュレーン近郊で捕獲された「ドイツ軍のM5M1」とIII号突撃砲。 鹵獲したアメリカ軍のM5系戦車を自軍編成に組み込んで使用していたのだろう。自軍の誤射を避けるために車体側面にドイツ軍マークの鉄十字を描き込んでいるが、ノーマルな白縁付きバルケンクロイツではなく縁なしの黒い十字になっている。 道端で放棄されたIII号突撃砲は足回りのトラブルがあって牽引を試みたのか、Cクレビスが荷物ラックに引っ掛けてあったりジャッキが無造作に置かれている。転輪には履帯連結ピンのスペア。機銃弾薬箱など荷物の雑然とした様子がこの車両の最後の状況を想像させる。
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about 1 month ago
1日1ミリ。シチリア、アチリアーレの街で防衛線を張るドイツ軍降下猟兵部隊の7.5cm対戦車砲PAK40。防盾の内側に戦車の絵が貼られている。チャーチル、M3リー/グラント、M4シャーマン。敵の戦車の弱点を色分けしたもので、エッジが少しめくれていることから、ペイントや琺瑯プレートのようなパーマネントのものでなく紙に印刷されたシートだと推測できる。 アフリカ・チュニジアの戦いで得た情報を元にシチリアの防衛隊に周知すべく急ぎ印刷して配布したのだろう。 写真はBundesarchiv Bild 101I-567-1515-29の部分
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about 1 month ago
1日1ミリ。1943年8月。シチリア島カターニアから撤退したドイツ軍がアチレアーレ(Acireale)で防衛ラインを張る。アチリアーレの大聖堂を望む坂道を横切るのはヘルマンゲーリング師団のIII号突撃砲F/8型。 坂道の下にはバリケードが見え、突撃砲は坂の途中の路地に隠れるためバックしているところか。坂道に合わせて揺動幅の大きいトーションバーサスペンションが効いている。こうした場所ではリーフスプリングサスペンションのIV号戦車よりIII号突撃砲の使い勝手が良かったことが伺える。 Bundesarchiv Bild 101I-567-1511-02
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1943年3月11日、フォード・ハイランドパーク工場で試験走行を行うM10A1。砲塔後部に楔型カウンターウェイトを装備。車体吊り上げリングはパッド無しの鋳造品(フォードはフィッシャーに比べ、パッド付きからパッド無しへの移行時期が早い)。前照灯プラグホルダーは車体前面と平行に設置(フォード製M10A1は生産終了まで平行設置?)。右奥にはM4A3も見えます。 背景に「FORD」の看板を掲げた5本の煙突が立っています。これはかつて工場の電力を自給していた発電所の煙突です。1926年頃に新しいリバー・ルージュ工場から電力供給を受けるようになったために発電所は稼働を終了し、1956年に解体されました。
about 1 month ago
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about 1 month ago
1日1ミリ。1943年8月5日、シチリア島東部のカタニアに入るイギリス軍の戦車隊。1両目と3両目はシャーマンIII( M4A2)、2両目はM5スチュアートだろうか。シャーマンの履帯はWE210と呼ばれるラバータイプでM3グラントで使用され、シチリア戦線のイギリス軍シャーマンでも使われている。例によってエンジンデッキには後部フェンダーカバーを転用した荷物ラックを装備。 正面にはバロック様式のカターニア大聖堂(Cattedrale di Sant'Agata)、広場に椰子の木、中世以来の細い街路の両側にシチリアバロックの建物が並ぶ。これぞシチリアというべき濃密な空間で映画のワンシーンのようだ。
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イカノボシ
ミカンセーキ
about 1 month ago
一日1ミリ。シチリア東部のカタニア近郊だろうか。ドイツ空挺部隊(第一降下猟兵師団)の連絡用車両と思われるFIAT500トポリーノとFIAT508バリラのピックアップトラック。ドアとベッドは木製、FIAT特有のリアランプ、そしてドイツ空軍の登録ナンバープレートの数字の書体がステンシルなのはイタリア軍のプレート用のマスキングシートを借りたのだろう。FIATは1932年の508バリラ(995cc)で成功して1936年に小型のトポリーノ(569cc)を開発する。 通りに立つ電柱は糸杉(サイプレス)の間伐材なのだろうか、比較的通直でシチリア南部の街のものほどではない。こういうところにも地域性が出る。
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about 1 month ago
1日1ミリ。1943年7月13日。シチリア島南東部に上陸したイギリス第8軍がカタリーナへと抜ける街道の途中、丘陵地帯の小さな街ビッラズムンド(Villasmundo)を通過する。 イギリス第4機甲師団のシャーマンIII(M4A2)はM3サスペンション、ワンピースデフカバー、U字型のアンテナブラケット、直視バイザー付きのFTA車体だろうか。ライトカバーにはヘルメットを被せている。 街道の曲がり角なのか、電柱には道標が見られる。シチリア南部では針葉樹が少なく通直な材木が少ないのか電柱はヨレヨレとして、支柱はフランスで使われるような連結金具もなく、かなり素朴な造り。 IWM (NA 4709)
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ミカンセーキ
about 1 month ago
ローマのブラスキ宮に掲げられた「ムッソリーニのファサード」も恐ろしくよく練られたものだ。1934年のイタリア総選挙は事実上、ファシスト党政権の信任投票になるもので、政権の掲げる政策に賛成か反対かだけを投票するものだった。選挙啓発用のポスターとなるべく作られたこのグラフィックは、ムッソリーニの肖像を形どったマスクと”SI”をひたすら連呼するミニマルなデザイン。 ”SI”とはイタリア語でYESの意味。
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ライマ・ロコモーティブ製M4A1。1942年8月~9月頃の生産車。 同一車輛の別カットからライマ特有の4本脚(3本の細い板を溶接した構造)の後部ライトガードが確認出来ます。他社製シャーマンではM3型VVSSは直視バイザー付き車体に装備されているのが一般的ですが、ライマでは補助ペリスコープ付き車体へ移行後も使用しており、イタリア戦線の車輛でよく見られます。
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about 1 month ago
1日1ミリ。1943年7月。シチリア南部に上陸したアメリカ第7軍が制圧したジェラ(Gela)の街。ウンベルト広場に展開した兵士が狙撃兵を警戒しているのか広場に伏せている。 広場に植えられた木はミモザだろう。細身の葉と春に咲いた花のの後の種子が残っているのが見える。 ジープの手前、広場の角にあるのは、ガソリンの計量器。(”BENZINA"はイタリア語でガソリンを意味する) イタリアでは1920年代の終わり頃からガソリンスタンドが整備されるようになり、いわゆるサービスステーションが普及する前は街角、広場のコーナーに給油スペースを設けている。
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about 1 month ago
1日1ミリ。1943年7月10日、イタリアのシチリア島南部、ジェラ近郊に連合軍が上陸、翌11日にドイツ軍第1降下装甲師団ヘルマン・ゲーリングが第504重戦車大隊のティーガー1初期型 17両を率いて迎撃開始。戦闘初日に5台、3日目に6台を失う。アーテカ(Acate)の街で放棄された車両は海岸に向かう途中で故障、乗員により爆破処分されたもので砲塔のキューポラは吹き飛んでしまっている。 平屋建てが多い田舎町だが歩道と車道にはきれいに石を敷き詰め、窓回りには白い縁取を回して軒は漆喰のコーニスを施す丁寧な造りだ。雨が少ない地域で軒樋はない。道に電柱を立てると邪魔になるのか壁から突き出す方式。
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写真のM36の90mm砲はマズルブレーキとボア・エバキュエーターを装備していませんが、ガスポートは付いています。現存車輛の砲身はこの仕様が非常に多いです。 『IMAGES OF WAR M36/M36B1』に同仕様の砲身を持つM36の内部写真が掲載されています。フィッシャー製M10A1車体なので、初期に改修された300輌の内の1輌である可能性が高いと思います。主砲はガスポート付きのM3A1又はM3A2ですが、砲架は初期のM4のままで、平衡装置も装備していません。リコイルガードの内側にはカウンターウェイトが取り付けられていますが、これは生産時からのものなのか、後付けされたものなのかは不明です。
about 1 month ago
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イカノボシ
ミカンセーキ
about 2 months ago
1日1ミリ。LIFE誌の一連のカラーフィルムから。チュニジアのエルジェムのコロセウムかと思いきや、アーチの装飾が少し違っている。縁のボーダーなど装飾がより繊細、オーダー柱などギリシャモチーフが強調されている。これはチュニジア国境を超えたリビア側のサブラタ遺跡と思われる。古代フェニキア人が築いた都市でローマ属州時代(3世紀)の円形劇場の遺構。
4travel.jp/travelogue/1...
米軍のジープはウィリスMBではなくFORD GPW。「前席の転落防止ベルトをかける「輪」がインパネに付いていますが、輪が横向きがMB、上向きがGPW」と教えてもらった識別ポイントが役にたちます。
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イカノボシ
ミカンセーキ
about 2 months ago
1日1ミリ。1943年4月のチュニジア。カルタゴの遺跡の近くの海辺の街、ラ・マルサの街。後ろ姿の車はおそらく1938 シボレー Master Deluxe Sedan。 最初にこの写真を見た時にはドイツ製のオペル・オリンピアOL38かと思い、熱帯塗装に見立てたカラリングは「バターの塊 "La motte de beurre"」と後に呼ばれるフランス製の塗料を使ったものでは?と推察もしたのだが、よく見ればパネルラインの違いからシボレーだと判明。 アメリカ軍のスタッフカーとも考えられるが見慣れたサンドカラー(No.3 Sand/FS30277)とは少し違う色調。
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T71/M36のM4砲架。シリアル番号1~600の車輛に搭載されたと云われています。砲架左側のバネ式平衡装置が未装備で、消火器の下に足場が設置されています。左右のリコイルガードの上部にはクランク型のロッドが溶接されています。主砲は生産当初はストレート型砲身でしたが、フィッシャーでの生産途中からマズルブレーキ取付用のネジ山が切られ、先端まで同径のネジ山保護リングが装着されたようです。 タミヤのM36(3枚目)はM4砲架を再現しています(足場は無し)。
about 2 months ago
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イカノボシ
ミカンセーキ
about 2 months ago
1日1ミリ。LIFE誌取材のカラーフィルムから。1943年2月28日の戦闘で放棄されたドイツ軍車両。路上にIV号戦車G型”852" 、中央はIII号戦車N型”832"、そして炎上中のティーガーは501重戦車大隊所属の車両。手前の米軍工兵が起爆装置を持ってるのでドイツ軍に回収されないように爆破したところだろう。カメラはレンズの焦点を奥に合わせて、兵士たちの前ピン気味な描写に臨場感が生まれて、彼らの足のポジションにも動きがある。いい写真だ。 チュニジアはリビア砂漠のピンク色の砂の世界とは違ってオリーブグリーンの草原の風景が広がる。
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