ノスタルジア窟
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もう帰らないあの日々が蓄積される場所。 みなさまからのnostalgiaをお待ちしております。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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トロのことも忘れないでね
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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こんな写真が出てきました。 2005年に当時発売されたSony PSP 向けパズルゲーム「ルミナス」がWi-fiでローカルの通信対戦ができたので、オフ会にみんなでやろうと持ち込まれた8台のPSPです。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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じょん。 ねえねえ、これ知ってる?今度SONYから出たちっちゃなゲーム機なんだよ。液晶画面に十字キーとボタンと赤外線で通信もできるんだ。メモリも16ブロックもあるよ。 どこでもいっしょでしりとりしようよ。
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❓
@mondo.bsky.social
add a skeleton here at some point
over 2 years ago
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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add a skeleton here at some point
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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ふと思い出したので、メモがわりに。 昔、フルデジタルでのデザイン制作がほぼなかった頃、そういうDTPオンリーのデザイン会社で技術担当をしてました。当時はインターネットに接続するのも個人ではダイヤルアップ接続が主でしたが、会社では専用線で常時接続をやっていました。当然固定グローバルIPもふられて、DNSサーバーとWebサーバー、メールサーバーも1台のMac上のソフトで動かしていました。勉強しながらなんとか試行錯誤でやれた頃です。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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ノスタルジア窟向けに再ポスト 所用でマウンテンサイクルを発掘してたら、こんなのを見つけました。 WS011SH Advanced/W-ZERO3 [es] 充電器がないので動作するかは不明。 今は亡きPHS回線を使ってたネットにアクセスできたWindows Moblie というMicrosoftの携帯端末用OSを載せた機械。QWERTY配列の物理キーボードにタッチペンでの操作でした。自作のアプリとかも動かせて、モバイル版インターネットエクスプローラー動いて、ガジェットとして楽しかった。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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朝ドラ見てる 最新技術である石版印刷(リトグラフ)の職人さんの「私たちはこの手で(過去の木版印刷の)私たちを殺してきたんだ」というセリフがよかった。僕は日本での黎明期のDTP技術で、それまでの印刷に欠かせなかった写植会社を殺す手の一本になった。
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ノスタルジア窟
Anne@しめじ組
over 2 years ago
45年以上も前の手動タイプライター。olivetti lettera 32 この色とデザインに惚れて購入。一行打ち終えるときれいな音がするのも好きだった。 今も使えるけど使えるシーンが無いし 布製のインクリボンも見つからない💦
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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マッキントッシュの実物を初めてみたのは、中学校の時で、理科のU先生(口の中の圧力を高めて雲を吐き出すのが得意技)が理科準備室を自分の書斎のようにして、そこに置いていたSE/30だった。いつもフライングトースターが表示されている画面をなんだんこれはと思ってみていた。触らせてといったら即座に“あかん”と言われた。マックの操作体系がいかにOSレベルで首尾一貫しているかを力説されたが、当時はピンとこなかった。後に、AppleのGUIガイドラインを入手したり柴田さんの本を読んだりして納得した。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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最初にさわったMac は、モノクロの一体型 Macintosh SE/30だった。なぜかそれでいろいろな曲を耳コピして鳴らして悦に入っていた。1ドライブのFDD構成だったが、それでOSと音楽ソフトが入って動かせた。GUIで画面上の五線譜に音符並べて演奏できるなんてそれまでのパソコン(その頃はNECのPC-8801つかってた)ではできないことに感激していた。残念ながらそのMacは借り物だったので、1月ほどで返さなければならなかったのだけど。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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ダイヤルアップ モデム 300ボー 1200ボー 4800ボー 9600ボー MNP4/5 ISDN 64Kbps x 2 ADSL 数百Kbps フレッツ 100Mbps 光ファイバー 1Gbps 10Gbps
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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僕の学生の頃は、終夜営業のゲームセンターがあった。風営法改正前。 そこで、年明けを過ごしたこともあった。中学か高校の頃。今では営業も未成年がそんな時間にゲーセンにいることもできないね。 別に家にいられない理由があったわけではなくて、友達と遊んで楽しかった。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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黎明期の市販ゲーム(だけではないが)もカセットテープで販売されていた。カセットに録音されているので、別のカセットにダビングできてしまったりした。当時でもプログラム1本3000円から1万円くらいまでの商品が、簡単にダビングできるというのは商売としてよろしくはないので、簡単にはダビングできないように、販売品にはデータ録音時に細工をしたりする、いわゆるコピープロテクトがかけられていった。 このコピープロテクトを回避するプロテクトはずしも、一つのテクニカルな遊びとして流行ったりしたのだが、それは別の機会に。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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当時の市販マイコンには、ROMにBASICインタプリタが記録されていたので、電源を入れるとすぐにBASICのプロンプトは出てきたが、シャープの発売したマイコンMZ-80Kシリーズなどは、このBASICすらカセットからロードするという、ある意味攻めたアーキテクチャだった。BASIC言語のプログラムではなく、機械語でダイレクトに記述されたプログラムの場合には、使用しないBASICインタプリタが占めるメモリ領域も使用できるというコンセプトだった。そのぶん、BASIC使うには電源入れてから何分かロード時間がさらに必要になったのだが。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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後に600bpsとか1200bpsで記録読み出しできる音声変換フォーマットができてスピードアップはした。記録フォーマットではカンサスシティスタンダードとかそれを改良したサッポロシティ・スタンダードなどがあったが、それでもそこそこのプログラムを読み込むには数分から長いものでは15分、20分かかったりした。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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音声としてカセットに録音できる周波数帯域には制限があるし、デバイスとして普通のオーディオ用機器もサポートする関係上、そんなに高音域の録音も、デジタルデータとして取り出せるシャープさも期待できないので、データ記録速度は秒300ビット程度(300ボーとか言われていた。エラー検出やバイトの開始終了のデータパターンも入るので、正確には300bpsではなくもっと低いレート)から始まった。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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どうやってコンピュータのデータをオーディオ用のカセットに記録していたかというと、データをカセットに録音できる音域の音声に変換して、音声として入出力していたのだ。当然、それを普通にスピーカーで再生することもできる。マイコンのメモリ内のデータを特定のパターンで音声化して出力し、逆に読み込む時にはその音声パターンから比較的単純なロジック回路でビットを検出し、マイコンのメモリに書き込んでいく。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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そうやってなんとか打ち込み終わって動くようになったプログラムを保存する手段は、当初はカセットテープに保存するしかなかった。何しろハードディスクもフロッピーディスクも存在しない(フロッピーディスクドライブは例えばApple ][にはオプションで存在したが、それだけで数十万だったかした)。保存用メディアとしてはカセットテープがリーズナブルであった。このカセットテープは市販のものが使え、カセットデッキも専用のものでなくても市販のオーディオ用のレコーダーなどが使用できた。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
@nostalgie.bsky.social
必要となれば画面表示用のメモリ領域(VRAMとか)を直接読み書きすることで、画面自体をデータ領域として使用する方法もあった。 キャラクタの当たり判定を、画面に表示されている文字データを直接読み出して、文字があったらヒットの判定にするとかやっていた。動かすことができたゲーム自体は、今のものとは比べ物にはならないが、当時はそれでも自宅のマイコンでゲームができるということ自体が魅力があった。さらにそれを自分で解読して、改造できたりもするのだ。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
@nostalgie.bsky.social
当時のマイコンのスペック、特に画面表示能力(文字のみで横40文字縦25文字とか)とCPUの速度、そして何よりプラグラムが使用できるメモリ容量に制限があった。RAM容量4Kバイトや8Kバイト(メガバイトではなくキロバイト)、16K使えたら大容量と言われた頃なので。その少ないメモリを、何しろプログラム自体がメモリを消費するので、データ領域として使用できるメモリはさらに制限された。まあ、ビットマップグラフィックが使える機種はまだ少なかったので、それほど膨大なデータ領域はまだ必要としなかった。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
@nostalgie.bsky.social
問題は、当時のBASIC言語にはデバッグ機能などはほとんどなく、まちがいを見つけるには紙面のプログラムリストと一文字一文字見比べてまちがいを探すか、もしくはどこで処理などがおかしくなっているか調べるために、プログラムの処理を目で追いかけ、途中に変数の値をPRINT文で表示させるprintデバッグを仕込んだりして調べていった。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
@nostalgie.bsky.social
ここで、エラーの行に単純な変数名や命令分の文の打ち間違いがあったのならそこを修正すればいいのだが、プログラムという性質上、他の行の間違いが元で計算や処理がおかしくなっていて、エラーの出た行ではそのおかしい計算や処理の結果でたまたまエラーが発生した場合もある。 まあ、これは現代のプログラム言語でも多かれ少なかれ発生するたぐいのエラーなので、プログラムを書く人なら経験はあるだろう。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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当時のマイコンのスペック、特に画面表示能力(文字のみで横40文字縦25文字とか)とCPUの速度、そして何よりプラグラムが使用できるメモリ容量に制限があった。RAM容量4Kバイトや8Kバイト(メガバイトではなくキロバイト)、16K使えたら大容量と言われた頃なので。その少ないメモリを、何しろプログラム自体がメモリを消費するので、データ領域として使用できるメモリはさらに制限された。まあ、ビットマップグラフィックが使える機種はまだ少なかったので、それほど膨大なデータ領域はまだ必要としなかった。
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ノスタルジア窟
mmns
over 2 years ago
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あんまりいい感じに撮れてる写真がないのだけど、新国民ソケットが「普通に手に入って普通に使える」ノスタルジーとしておすすめ。 でもそれってノスタルジーって言わないかも?
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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ゲームボーイが画期的だったポイントはいくつもあるが、ゲームがカートリッジで交換できることと、液晶画面の表示がドットマトリックスで描画されることが驚きだった。それまでの液晶画面つきの携帯型ゲーム機といえば、ひとつのゲームしかできず、背景画像上に置かれた液晶にあらかじめ割り振って描かれたキャラクターが電圧に応じて明滅するゲームウォッチしかなかった。
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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大阪の日本橋が憧れの電気街だったころに、数回行ったことがあるのだけれど、ヒロ・ヤマガタとクリスチャン・ラッセンのシルクスクリーンが流行っていた。なぜか電気街の一角に画廊があって、店先で女の人が絵はがきを配っていて、何気なくその絵はがきをとるとものすごい力で絵はがきを握り返してきて話そうとしない。ッツォーーーーィッ‼❗と勢いをつけて奪い取ったところ、チッと舌打ちをされた。あれは一体、何だったんだろうか。
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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子どもの頃住んでた団地と、行ってたスイミングスクールの様子が知りたくなって記憶をたよりにGoogleマップを検索したら、更地になってた。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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話を戻すと、8080/Z80系と6502というアーキテクチャーというか思想の違う複数のCPUを並行して学べたのは幸運だった。同じ目的のBASICプログラムでも機種の違いで方言や今でいうハックの仕方が違うとか、機械語にもなると書くアセンブリ言語のプログラム自体が根本的に違うのに、計算や処理の仕方(アルゴリズム)や扱うデータ構造には共通性があることなどを学べたのは、今でも職業のスキルのバックボーンとして役立っている。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
@nostalgie.bsky.social
CPUの変遷なんか240字でかけないしそんな詳しい資料もないのではしょるが、Macintoshはしばらく68k系を使っていたが、68k系のパフォーマンスに見切りをつけて、アーキテクチャーの全く違うIBMのPowerPCというCPUに切り替えるという暴挙に出て、みごとに成功させた。そのあとPowerPCにも不満が出て、また全く違うインテルのx86に載せ買えて、それでも飽き足らず、今はスマホに使われているArm系をベースに自社開発のApple Silicon(M1 とか M2とか)に切り替えてそれも成功させるというとんでもないことをしている。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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ちなみにそのApple ][に載っていたCPUは6502という種類で、当時の国産マイコンは8080やその上位互換のZ80が多かった。一部6809という系統もあった。 8080の系統は、今のインテルの x86 系プロセッサになる。 6809の系統は直接ではないが68000系につながる。これはX68000 にも載っていた。 一方でApple ][の6502はというと、Apple IIシリーズでは16ビット拡張されたりして使われてきたが、Macintoshでは68000に変わられてしまった。6502は有名どころでは任天堂のファミコンに採用された。
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
@nostalgie.bsky.social
学生の頃に先輩たちと熊本に旅行に行ったんだけど、そこで食べた、先輩が買ってきてくれた馬刺しが美味しすぎて気づいたら“全部食べちゃった…”になっていて、激怒されて“さっさと買ってこい”と言われて放り出されたんだけど、もう良い部位は売ってなくて、テキトーな固そうなのを買って帰ったんだった。
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
@nostalgie.bsky.social
ポリゴンで描かれた3Dゲーム。当時いくつかのPC(NEC、Towns、Windows95?)でリリースされていた、アローンインザダーク。スーパファミコンのスターフォックス。その後、32ビットCPUを搭載した次世代型ゲーム機(PlayStation、Segaサターン)の時代がやってきた。かたやPCエンジンのNECはアニメがなめらかに動くPC-FXを発売した。デザインはよかったけど、子どもがやるゲームはリリースされなかった。
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ノスタルジア窟
baiser
over 2 years ago
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Life &DeathというPCゲームをまたやりたい。衝撃だった。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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今と違いネットなどという簡単につかえる情報源はなく、マイコン少年向けの雑誌とそれに乗っていた互換性のない他機種のプログラムを動かしてデバッグして得たBASIC言語やアーキテクチャーの異なるCPU向けの機械語プログラムを逆アセンブルして得たCPUがどういうふうにしてメモリやキーボードのデータを読み込み、それを計算して、どうしたら画面に文字や画像が表示されるのかを解析してきた経験と、ちょっと大人向けの雑誌(当時の月刊ASCII誌とか)に出てくる情報を手がかりに、独学で他機種用のプログラムを無理やり移植したりしていった。
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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パーソナルコンピューターとの初めての出会いは、従兄弟の家で。家宝のようにしまい込まれてたまにいったときにたまにだけ触らせて貰えたテレビに繋ぐボタンがたくさんついたそれがMSXという端末であることを後から知った。ファミコンのカセットを一回り小さくしたようなカートリッジを指すと、“グーニーズ”のゲームが始まったんだけど、始めるために随分と手間の掛かる装置だなあと思ったものだった。
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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誰しもが“小さくて機能的なもの”が好きだと思うけれど、その意識が強化されて何かの選択に際しての自分の強い価値観として登録されたのはゲームボーイだった。買って貰えなかったカートリッジ交換式のゲームが小さな画面でいつでもどこでも出来る感動。一気に近視が進んで視力が0.08になった。
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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記録メディア。音楽、物心がついたときにテープとレコードがあった。レコードは音が綺麗で、テープは音がくぐもっていたけどとりまわしはよかった。しばらくしてレコードが消えてCDが普及した。ダビングはテープだったけど音質に不満があった。やがてMDが登場して、CD並の音質でFMラジオやCD音源を録音できた。やがて、シリコンプレーヤーが登場してMDは駆逐され、そのシリコンプレーヤーもスマートフォンに吸収合併された。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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Apple ][といえば、今のMacやiPhoneに連なる米国Apple社(当時はApple Computer)の製品だ。日本にもマニアはいたが、国産マイコンよりもお高く、もちろん愛読のマイコン雑誌にもプログラムリストが載ることは少なかったが、興味というモチベーションの前には関係なかった。 Apple ][には組み込みのROMに整数BASIC言語インタプリタと機械語モニタという、メモリに直接機械語を書いて実行する機能や簡易アセンブラ機能もあった。なんと回路図と今でいうBIOSにあたる基本機能のソースコードまでついてきていたのだ。
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ノスタルジア窟
Henoya🍄Shiitake
over 2 years ago
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自分のうちにはじめて来たパソコンは Apple ][ だった。もちろん自分で買ったわけではなく、新し物好きの父親が購入したものだった。 当時すでに街の中心部にある電気街には国産のパソコン以前のマイコンがいくつか店頭にならんでいた。MZ-80K、ベーシックマスター2 など。そこはマイコン少年のたまり場になっていた。当然自分もその一員で、マイコン雑誌に掲載されていたプログラムコードを何時間もかけて入力して動いたりうち間違いのデバッグするのを楽しんでいた。 そんな中、自分のうちで自由に使えるマイコンというか初期のパソコンが手に入ったのだ。
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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ビックリマンが流行っていた。お一人様3個まで。 スーパーゼウスが欲しくて初めて買った中にはホロのワンダーマリアが入っていた。がっかりした。価値がよく分かっていなかった。幼なじみが持っていたドキドキ学園のラーメンの悪魔と交換した。あとから価値が分かって取り戻そうとしたときには、その幼なじみは別の子に言いくるめられてもう手放していた。
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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アニメ『美味しんぼ』で印象的だったのは、毎回流れる都会の喧噪(車の走行音とクラクション)の効果音。
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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80年代:けだるい 90年代:暗い 00年代:停滞↔進歩 10年代:停滞↔進歩 20年代:
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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立体視。1993年にコロコロコミックの巻頭企画で赤いドットがプリントされたカードに対して特別な見方をすると何かが飛び出して見えるということだった。目をこらして点を凝視するも、ドットのひとつひとつがはっきり見えるだけで何も浮かび上がらなかった。
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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帰省先のサティのゲームコーナーでは、数年後に任天堂がどうにかしてしまったのかという感じで発売したヴァーチャルボーイが展示されていた。体験もできた。なにか赤い下敷きを切り抜いたようなキャラクターと背景が重ね合わさって立体的にみえる仕様で、立体視にハマっていた自分としてもこれは流行らないだろうなあ、と思った。
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ノスタルジア窟
baiser
over 2 years ago
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ファミコンがどこにも売ってない(私はその当時は欲しくなかった)時になぜか与えられたもの。 SEGA MarkIII 与えられたらまあまあ楽しくてもクラスメイトと話があわない笑
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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帰省先のサティのゲーム売り場は新規開店だったこともあり、当時出たばかりであまり流通していなかったゲーム機を積極的に展示していた。そのひとつがATARIのジャガーとリンクス。とくにリンクスはいきなり大幅値下げで販売されていて9980円だった。リンクスは世界初のカラーの携帯型ゲーム機で、当時ゲームギアにハマっていた自分としては少年ジャンプの懸賞欄に大きく掲載されていたそれは突如現れた謎のライバルだった。その店にはゲームボーイやゲームギアのソフトに並んで、当たり前のようにリンクスのソフトも陳列されていた。
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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据え置き型のゲーム機は結局買ってもらえなかったんだけれど、ファミコンやスーファミは近所の友達や従兄弟にさせてもらった。 みんながファミコンを買う中で、田中はPCエンジン(初代)を買ってもらっていた。画面と音がファミコンより綺麗で、ゲームカートリッジはカセットではなくICカード(Huカード)だった。 いとうせいこうはテレビで“これからはメガドライブ”と叫んでいて、それから何年もしたあとにスイミングスクール友達の木村が突然“メガドライブを買った”と宣言した。
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
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PCエンジンLTが欲しかった。はじめて出会ったのは帰省先のサティ(現:イオン)。オープンしたてでゲーム売り場が充実していた。そこのガラスケースに小さくて、分厚いラップトップコンピューターのような端末が鎮座し、孫悟空が主人公の横スクローリングゲームが表示されていた。価格はなんと99980円! Huカードを本体のど真ん中にさすというぶっ飛んだデザインで、CD-ROM2の端末にも“そのまま”接続し、コントローラーもつなげられた。PCエンジンコアグラフィックスⅡにそのまま液晶画面と操作ボタンがついたような端末だった。
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ノスタルジア窟
Nightlantern🎃️
over 2 years ago
@nostalgie.bsky.social
90年代はなぜか暗かった。特に95年以降は暗かった。
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