徒然草
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歴史関係のつぶやきが多いです。 主に織豊期に関連する論考をnoteにまとめています→
https://note.com/turedure7014/portal
ヤフオクに津田国千代・武井夕庵宛ての武田信玄書状(『戦国遺文』武田氏編2371)が出品されていた。信玄書状は見慣れている訳ではないが、どうも真筆っぽい?注目度は高く既に30万以上の金額になっている。
auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/j...
旧所蔵者の死没によってヤフオクに流れてきたのであろうか。この文書は永禄後期〜元亀年間の武田・織田・徳川の三者間の関係を見通せるかなり重要な文書なので然るべき研究者もしくは研究機関の手に渡って欲しいと思う。ただ、このような有名な文書がヤフオクに流れてしまうという事態も時代の流れを感じられると同時に心配でもある。
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【深和】『戦国遺文』今川氏編・武田氏編所載品 ... - Yahoo!オークション
【深和】『戦国遺文』今川氏編・武田氏編所載品◆武田信玄 書状 津田国千世・武井夕庵宛 永禄十二(1569)年五月廿三日付 真筆 商品説明 武田信玄の書状です。 永禄12(1569)年5月23日、織田一族・津田国千世と織田信長の右筆武井夕庵に宛てた書で、徳川家康が今川氏真を懸
https://auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/j1209691699
15 days ago
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Xで色々と炎上している件について、以下の思いがあるのでこちらに書く。 ・自戒も込めて問題の根源を言語化しておきたい ・ただ、加害者をリンチにする行為に加担したくない この問題の根源として、wikipediaやYouTubeなどで【自分が知りたいと思う知識】を【容易に】取得できるようになった状況を想定する。その知識は、あくまで【自分が知りたいと思う知識】であり、正確性等はあまり考慮されない。自分が正しいと思う知識だけを手に入れるようなアルゴリズムを自ら構築してしまっていることが致命的だと思う。また、知識取得のために要する労力の低下は知識そのものの価値を押し下げることに繋がる。
about 2 months ago
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www.sanspo.com/article/2025...
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関脇若隆景、大関とりの夢つなぐ3勝目「集中して自分らしい相撲を取っていきたい」 紺野美沙子も期待/秋場所
大関昇進に挑む関脇若隆景(30)は、阿炎(31)を押し出して3勝目。序盤で白星を先行させた。横綱、大関陣は安泰。両横綱は豊昇龍(26)が平幕熱海富士(23)を…
https://www.sanspo.com/article/20250918-HFW7QM6ESRJFTE4LOAHUHWYOMI/
3 months ago
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色々縁があって有り難いことに昨日今日と関西万博に行ってきた。明日も行くけどとりあえず感想。 ・レストランが併設されていたりするパビリオンに入ると、視覚や嗅覚からガラッと現地に来たような感覚に陥る点は感動した。 ・本当は最先端の技術を展示するパビリオンとかに入れればさらに良いのだろうが、事情があって事前予約がほとんど出来なかったので諦めの境地。 ・館内の物価は意外と良心的、金を積めばさらに深い体験が出来るのだろうけど懐事情が…でも、色々めぐるだけで充分楽しめている自分もいる。 ・目印になるものがあまり無く、迷うときもあった。 来てみると意外と楽しい。何度も来たくなる人の気持ちが分かる。
7 months ago
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『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』を改めて観直す。 複数回観直し、自分は凄く好きな作品ではあるが「『クレヨンしんちゃん』でやるべき内容であったのか?」という点について最近考えるようになる。 キッカケは楠部三吉郎『「ドラえもん」への感謝状』(小学館、2014年)に記されたエピソードで、元シンエイ動画代表の楠部は本作の監督である原恵一を高く評価しながらも、小さな子どもたちの欲求に応える感謝の表し方として本作が妥当であるのかを叱責したという。初めて読んだときに楠部の視点はとても興味深く、作品そのものの質だけではなく「誰に向けた作品か」を考えることも大事なのだということを知った。
9 months ago
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「鹿の国」を観る。映画の内容を補完するガイドブックも合わせて購入。充実した内容。
shikanokuni.vfo.co.jp
醍醐味の「御室神事」の再現、諏訪大社の祭礼や地元に残る信仰の姿を眺めるうち、神事の中に「神聖性」「密室性」、それらと相対する「世俗性(農耕を模した踊りや密通の現場を眺める人々」「穢れ(鹿の生首、毛皮など)」が混在する生々しさを感じた。それは「鹿食免」に代表される罪業を抱える人々を包摂した上で地域の豊穣を祈念するという根源的な成り立ちが関わっているからこそなのだろうかと思考を巡らせる。 この渾然一体の様は大らかさでもあり、冷徹さでもあるか。
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映画「鹿の国」公式サイト
なぜこの土地に、これほど心が騒ぐのか? 冬から春へ、死から再生へ。美しい四季とともに3年をかけて描き出された、現代社会を生きる私たちが忘れかけていた原初の祈りの姿。
https://shikanokuni.vfo.co.jp/
9 months ago
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前々から気になっていた「どうすればよかったか?」を観る。個人的には衝撃的な映画だった。
dosureba.com
才能豊かで医学部に進学したものの統合失調症を発症した「姉」。彼女が「父」「母」によって適切な治療を受けられないまま25年間家の中に閉じ込められた姿とその後に適切な治療を受けて平穏な日常を送れるようになった姿とを対比させ、また、「父」「母」が他責思考に基づいて自己弁護に努め、父が最後に「姉の人生はある意味充実していた」「(姉を閉じ込めたことについて)失敗だったとは思わない」と言い放つ様にずっと背中がゾワゾワしていた。監督は「失敗例」とするが、外部にいるからこそ見える狂気。
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映画『どうすればよかったか?』公式サイト
映画『どうすればよかったか?』12月7日より劇場公開
https://dosureba.com/
11 months ago
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今年書いた記事の振り返り① 信長の偏諱授与に関する記事を二本書く。 「織田信長から松平信康に対する偏諱授与を「敢えて疑う」」
note.com/turedure7014...
一点目は「どうする家康」(2023年)に際して多数出版された家康関連書籍のなかで、特に黒田基樹が論ずる織田と徳川との上下関係に疑問点を抱き、論拠の一つとされていた家康嫡男の松平信康への偏諱授与を「敢えて疑う」姿勢で考察を進めてみた。 後年の編纂史料を整理していくと、信長から信康への偏諱授与に関する記事はどんどん話が膨らんでいったことが分かる。史料の収集と整理が大事だということを改めて実感した。
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織田信長から松平信康に対する偏諱授与を「敢えて疑う」|徒然なるままに
序論 松平信康は徳川家康の嫡男として永禄二(1559)年三月に駿河にて誕生、織田信長の娘である五徳を妻とし、元亀元(1570)年八月に元服したとされる(『松平記』『浜松御在城記』等、黒田基樹 (1) は元亀二(1571)年八月の出来事と推定)。元服に伴い、岳父信長の「信」、実父家康の「康」を取って実名「信康」を名乗った。 上記の事実から「信康」の「信」は信長からの偏諱授与として説明される場合...
https://note.com/turedure7014/n/n9a8cc1340547?sub_rt=share_b
12 months ago
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久しぶりに白山史学会70周年特別企画「織田信長像再考」の論考を読む(『白山史学』53号、2017年5月) 戦国史研究会、神田千里や金子拓による信長関連の書籍が発売され、旧来の信長像に再考が迫られていた時期に行われたシンポジウムの講演をまとめた論考集。当日参加したが、なかなか理解が及ばなかった過去の自分を思い出しながら通覧。 ある程度解像度が上がった状態で読み進めると、「革命児信長」や「信長の野望史観」の相対化を目的とするだけではなく、それ以前に出版された池上裕子『織田信長』の見直しもその意図に含まれていたのかと夢想。
hakusan-shigaku.org/document/70t...
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http://hakusan-shigaku.org/document/70th-annivarsary.pdf
12 months ago
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尊経閣文庫所蔵の中川重政書状の年次比定に関する素人考えメモ 『福井県史』資料編 2 (中世)(福井県、1986年3月) 国立国会図書館デジタルコレクション
dl.ndl.go.jp/pid/9539964
(参照 2024-12-25) 若狭武田氏一門内での争い、家臣団・国衆の分立状況といった混乱が続く若狭に越前朝倉氏が介入する。当時の当主元明を越前に移したことから若狭は当主不在の国となり、家臣や国衆は各々で幕府方(後に織田信長が加わる)と越前朝倉氏のどちらに付くかを選択しなければならなくなった。庶子家の武田信方はかねてから義昭と接触し、若狭武田氏と幕府を仲介する存在であった。
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国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/9539964
12 months ago
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織田信長の偏諱の概要。 ・「織田信長から松平信康に対する偏諱授与を「敢えて疑う」」
note.com/turedure7014...
・「織田信長の偏諱授与-その実態、家中秩序の形成に関連する一試案」
note.com/turedure7014...
初期の信長の偏諱授与は、以下の通りで行われる。 ⑴ 烏帽子親子など主従関係の強化を目的とする場合 ⑵ 武功を褒賞する場合 ⑶ 他国から織田家に転仕した場合 織田家は武田氏や今川氏、大友氏のように家臣団の家格秩序を整備するにあたって偏諱を一指標として用いることは無かった。これは後年の信長が家中統制に官途の賜与を用いなかったことに通ずるか。
12 months ago
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山本英二「浪人の由緒と伝説-武田浪人の場合」(『国文学解釈と鑑賞』Vol.70 No.10、2005年10月) 富を得た人間が慈善事業団体の代表になったり、偉人の子孫を名乗って名声を欲するようなものであり、現代も過去も変わらないという印象。 浪人が溢れる時代→浪人改帳などで管理される時代への移行につれて流動的だった身分階層が固定化していく。一種の閉塞感が蔓延する中でイエの由緒を誇示すること(ここには由緒の偽装を含む)によって地域社会のうちで名士的立場を獲得し、子孫の代まで名誉あるイエの由緒を残そうとした人たちがいた。本稿は武田信玄の家臣であったというルーツを標榜した人が取り上げられている。
about 1 year ago
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徒然草
今福 匡
about 1 year ago
明智光忠が入ったといわれる周山城。記事中に「山崎の戦いの敗北から約2週間後、光秀の家臣が周山城を焼いた」ことが記されているという「坂上谷文書」はよく知らないが、どうも近世在地文書らしい。 関ヶ原の折の佐和山城みたいに焼けた・焼けてないという判断も難しい。伊達政宗書状にある使者が「すりはり(峠)」を通ってきたというやつも、摺針峠からは佐和山城が見えないという話も聞くし・・・
news.yahoo.co.jp/articles/ac5...
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<独自>山崎の戦い敗北後に明智光秀の家臣が放火した遺構か 京都・周山城で赤い石垣出土(産経新聞) - Yahoo!ニュース
16世紀後半、戦国武将の明智光秀が丹波支配の拠点に築いた本格的山城「周山城(しゅうざんじょう)」(京都市右京区)の二之丸跡から、火災を物語る赤く変色した石垣が出土した。天正10(1582)年の山崎の
https://news.yahoo.co.jp/articles/ac5c99b45c6f7d0d13cc660324c7233401179913
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宮島新一「歴史手帖 秀吉は駕籠に乗ったか」(『日本歴史』669号、2004年) 中世に一般的な乗物とされていた輿が、駕籠に変わっていく流れを概観した小稿であり、天正末期から慶長初頭に輿→駕籠(「釣り輿」「簾籠輿」「肩輿」「荷輿」他)の交代が生じ、関ヶ原合戦の前後が移行の最終段階であったという結論。『家忠日記』から確認できる輿→駕籠の移行期のような乗り物が興味深い。 自分の興味範囲から付け加えると、信長の「乗物」としては牛車(「南都大乗院ノ車ヲ本トシテ被作、不及乗車」『義演准后日記』)、輿(「自信長與披見有度候、新造可有用之本可有披見候間、可借用」『尋憲記』)が挙げられる。
about 1 year ago
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山田貴司編著『シリーズ・織豊大名の研究2 加藤清正』(戎光祥出版、2014年)のうち、以下を通覧。 「総論 加藤清正論の現在地」 「第1部 政治的動向とその立場」 読み始めた理由は、宮下英樹『大乱関ヶ原』で「何故加藤清正がこれほどキャスティング・ボードを握るような存在として描かれているのか」と思ったため。ここには秀吉親類衆として清正より遥かに高い地位を有する福島正則が「加藤派」と括られていたことに対する違和感もあった。 読み進めながら清正のイメージとして「秀吉蔵入地を厳密に管理する有能な行政官としての姿」「朝鮮出兵において秀吉の期待に最大限に応えようとする猛将としての姿」の二つが浮かぶ。
about 1 year ago
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山本英二「由緒論をふりかえる」(『日本歴史』900号、2023年5月) 一、由緒、その近世的展開 二、論文の意図と論点 三、論文執筆までの経緯 四、由緒論の課題 上記の目次を眺めて分かるように筆者が過去に提示した論文/論点の意図や執筆過程を振り返り、今後の課題に言及した小稿。これから「由緒論」に触れてみようと考える人にも細かな指針を与えてくれる内容になっていると感じた。 ・寛文印知の例外措置を受けた六家はいずれも家康に関する特別な由緒を有していた。しかし、彼らの由緒の根拠となる史料には明らかな偽文書が含まれており、特権認定の基準は文書の真偽より徳川家との由緒にあったこと。
about 1 year ago
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金子拓「戦国時代から江戸時代初期における戦争体験」(『歴史学研究』2024年12月号 No.1056) 第二次世界大戦が終結してから現在(2024年)に至るまで79年が経過しても戦争の記憶は映像や手記などで生々しく残ると同時に、一人ひとりの「なま」の記憶が濃淡はありながらも残存している。また、「なま」の記憶はそれを有する人間が属する社会や組織によっつ何らかの制約を受けている可能性は無きにしもあらずである。 この小稿で、筆者は上記のような「認識の歪み」を想定した上での史料に基づいた戦国・江戸初期の戦争体験の残存の在り方を考察している。
rekiken.jp/journal/2024...
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2024年(1044-1056号) | 歴史学研究会
1月・2月・3月・4月・5月・6月・7月・8月・9月・10月・増刊号・11月・12月2024年12月 No.1056特集 歴史における戦争の記憶(Ⅱ)戦国時代から江戸時代初期における戦争体験金子 拓(1)ムスリム勢力との戦争の記憶―中世カスティーリャ王国の事例―黒田 祐我(13)時評ガザ情勢が喚起する根源的問い―動揺する中東情勢と人道危機の300日―鈴木 啓之(24)書評伊東かおり『議員外交の世紀...
http://rekiken.jp/journal/2024jp/
about 1 year ago
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www.chunichi.co.jp/article/259313
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朝乃山は精神面磨け あと…キャバクラは人の目に付くのでお座敷にしなさい 今度、俺が教えてやる【北の富士コラム】:中日スポーツ・東京中日スポーツ
◇23日 大相撲夏場所千秋楽(両国国技館) 長い長い15日間がやっと終わった。白鵬が休場したので、4大関が場所を引っ張らなければいけな...
https://www.chunichi.co.jp/article/259313
about 1 year ago
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「茶碗の中 IN A CUP OF TEA」 小泉八雲、田部隆次訳
www.aozora.gr.jp/cards/000258...
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小泉八雲 田部隆次訳 茶碗の中 IN A CUP OF TEA
https://www.aozora.gr.jp/cards/000258/files/59429_69744.html
about 1 year ago
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徒然草
今福 匡
about 1 year ago
岐阜関ヶ原古戦場記念館の『関ヶ原研究会寄稿集』および『「関ヶ原研究若手研究者支援事業」成果論文集』のデータがアップされていますね。
sekigahara.pref.gifu.lg.jp/news/p6408/
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『第1回「関ケ原研究若手研究者支援事業」成果論文集』を掲載します。 - 岐阜関ケ原古戦場記念館
岐阜関ケ原古戦場記念館では、関ケ原合戦に関する調査研究を一層促進し、調査研究フィールドや観光地としての関ケ原古戦場への関心や魅力の向上を目指しています。 その取り組みの一環として、関ケ原の戦いに関する調査研究に取り組 […]
https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/news/p6408/
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自分が書いた過去の記事。 「『田嶋家文書』酒井忠次宛佐久間信盛書状の考察」
note.com/turedure7014...
本稿で考察したのは以下の二点。 ①元亀三(1572)年に年次比定されて本文書について、佐久間信盛の花押の変遷や対上杉氏外交に関与する織田家取次の動向から元亀二(1571)年ではないかと再検討。 ②本書状は、越後上杉氏と徳川氏との間で結ばれた「越三同盟」に関係するものである。徳川氏は織田氏と甲斐武田氏との関係を断交させようと計画しており、佐久間信盛は対徳川氏取次として家康の意向を叶えさせるように信長に働き掛けようとしていたのではないかと考察した。
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「田嶋家文書」酒井忠次宛佐久間信盛書状の考察|徒然なるままに
本稿では、以下の書状について検討してみたい。 「(包紙ウハ書) 酒左/御宿所 信盛」 猶以先度御馬被懸御意、畏入候、将又拙者江刕留守之刻、御用之事好斎懇ニ申置候、自然之事、可被仰付候、然者先好斎へ貴所より書状にて御理尤候、 先度参候処、御取成故、貴殿御気色能、御懇之儀共本望候、仍御一書之通、信長具申聞候、御存分、先以無余儀之由候、従越国近日佐々一兵衛可罷上候、甲使者種々雖申掠候、被仰聞候...
https://note.com/turedure7014/n/ne5f4e0191867?sub_rt=share_b
about 1 year ago
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水野伍貴『関ヶ原への道-豊臣秀吉死後の権力闘争』(東京堂出版、2021年) 本書では徳川家康が(恐らくは秀頼の存在自体を否定する意思は有していなかったものの)秀吉死後の豊臣政権の体制を自己の都合が良いように改変し、所謂「五大老」「五奉行」のうち標的に定めた人物を徐々に排斥していくという方針が見え、従来の研究による「野心家としての家康」の姿を再度明示しているのが分かる。 個人的には石田三成の失脚を家康の私婚問題から始まる政争に連動する形で起こった事件として位置付けた事、毛利輝元・宇喜田秀家が三成や大谷吉継、さらに「三奉行」を巻き込む形で西軍が構築されたという指摘は興味深かった。
about 1 year ago
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山本博文『「関ヶ原」の決算書』(新潮新書、2020年) 個人的に面白かった箇所 ①一般的に島津氏は小説や漫画では「戦国最強の戦闘集団」のように描かれる機会が多いが、実際は文禄・慶長の役や関ヶ原合戦で露呈した主に脆弱な経済基盤を要因とする兵員不足に悩み続け、その経済基盤を強化するために豊臣政権に対して太閤検地の実施を求めていたこと。結果として倍増以上の領国全体の知行高、義久・義弘の蔵入はそれぞれ約4倍、約8倍になり、兵糧調達等に用いられる無役分の増大等を史料から確認できるという事実は、政権側だけではなく大名権力の視点から太閤検地の一意義を考える材料になる。
over 1 year ago
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『信長終焉記』(聖藩文庫所蔵)を少しずつ読んでいるが、闕字や平出、一部例外を除く人物の表記から『惟任退治記』の古形態と考えても良いのか。 疑問点としては『惟任退治記』の天正十年十月日成立をそのまま信じるならば正親町天皇を「上皇」、織田信重を「織田七兵衛信澄」と表記するといったことがあるのか。 ただ、『続群書類従』所収本などの明らかに後世の追加修正が入っている『惟任退治記』ではなく、内容を考慮した上で『総見院殿追善記』や『豊臣報君讎記』、『信長終焉記』などのより古形態を反映した史料を利用するべきなのだろうとは思う。
over 1 year ago
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池田恒興の諱「信輝」に関して 前提条件として「信輝」を名乗った事実を示す一次史料は存在せず、イエの顕彰を目的とした創作であろう。 恒興が「信輝」を名乗った由来として池田家内部でも二系統が存在する。 ①星崎城攻略における恩賞として織田信秀から偏諱を頂戴した系統 →「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」 ②織田信長から偏諱を頂戴した系統 →「池田恒興像(狩野尚信筆)」「池田家履歴略記」「御系図一(池田家文庫C-18)」 *信長から偏諱を頂戴した時期については永禄三年の桶狭間合戦の功績とする場合が多い(「池田家履歴略記」「御系図一(池田家文庫C-18)」が該当)
over 1 year ago
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山田貴司「関ヶ原合戦前後における加藤清正の動向」(熊本県立美術館編『生誕四五〇年記念展 加藤清正』、2012年初出、山田貴司編著『シリーズ・織豊大名の研究2 加藤清正』戎光祥出版、2014年閲覧) 宮下英樹『大乱関ヶ原』を読んで関ヶ原合戦前後における加藤清正の立場に興味を持ったので閲覧。『大乱関ヶ原』では東西両軍以外の第三極のように描かれているが、実際の清正は庄内の乱を経て家康の不信を買ってしまったことから、会津征伐に自身の小姓や家臣を送ったり九州での戦いでは黒田如水や東軍勢力と細やかに連携しながら援軍派遣や軍事活動に取り組んでおり、かなり明確に東軍勢力として活動していた事を理解。
over 1 year ago
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水野伍貴『関ヶ原合戦を復元する』(星海社、2023年) 自分が関ヶ原合戦については不勉強であることを前提として。 本書を読み進める中で面白いと思ったのは、筆者が想定する東西両軍の布陣図が評判が悪いとされていた『日本戦史』の布陣図に極めて似通っていた事。しかし、ほぼ後世の二次、三次史料に頼らざるを得ない桶狭間や川中島とは違って一次史料や家譜、覚書などの量が圧倒的に豊富であることから合戦史の対象としても関ヶ原は再現が容易な部類に該当するのではないかと思い直した。実際に『日本戦史』の中でも関ヶ原に関しては「關原役文書補傳」「關原役附表附図」とかなり詳細にまとめられている印象。
over 1 year ago
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桐野作人『謎解き関ヶ原合戦 戦国最大の戦い、20の謎』(アスキー・メディアワークス、2012年) 近年における関ヶ原合戦に関する研究は非常に活発である。2023年には大河ドラマ『どうする家康』が放送されたためか新説批判を試みる書籍も出版社される程であった。 筆者が記した『真説 関ヶ原合戦』(学研M文庫、2000年)はその端緒の一つといえる書籍であり、本書はその補筆改訂版である。私は詳しく検討した訳ではないが関ヶ原合戦の研究は2010年代以降に転換期を迎えている(白峰旬や高橋陽介がその一例)と思われるが、本書は現今の研究の成果にも通ずるような視点で関ヶ原に関する様々な事象を考察している。
over 1 year ago
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木下聡「公開講演 徳川家康と官位」(『白山史学』60号、2024年) 気になった箇所を下記に引用。 「家康も(引用者註:毛利)元就同様に、朝廷からの差配で任官した左京大夫は、朝廷との交渉の上でのみ用い、武家の人間や領国内に対しては、自身で政治的意義から選択して任官した三河守を使い続けていたのです」(P.20) 家康の左京大夫任官について、関連史料から読み解けるのは家康の官位を他者がどのように認識していたかであり、家康発給文書から確認できない以上、家康本人による使い分けまで踏み込むことは出来ないのではないか。
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久保健一郎「戦国大名領における訴訟と裁許-北条氏を中心として-」(『戦国史研究』第37号、1999年) 読み進めていく中で個人的に重視したいのは、後北条氏の裁判制度の整備・改革は永禄三〜四年の長尾景虎の関東侵攻に伴う「徳政」の一環、著者曰く「大名権力の危機をテコとして急速に整備がはかられた」という指摘である。 検討対象である後北条氏は史料が豊富であることから戦国大名研究の中心として扱われている。しかし、大名家中の成立及び発展・滅亡がそれぞれ異なる以上は後北条氏で確認できたとしても必ずしもあらゆる戦国大名研究に当て嵌まるものではないことを頭に留めておいた方が良いのだろうと考えた。
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徒然草
博物月報
over 1 year ago
建久4年の今日5月28日(1193.6.28)、曾我兄弟仇討ちの日。源頼朝が行った「富士の巻狩り」の際、曾我兄弟が父の敵・工藤祐経を討ち取るが2人とも落命する(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも描かれた)。 曾我(兄)の愛人・虎御前は大いに悲しみ、以後この日は「虎が雨」といい、必ず雨が降ると言われた☂️ ところで時代が下って江戸期、隅田川の川開きはこの旧暦5月28日に行われた。平凡社大百科事典が〈「虎が雨」の/水にまつわる信仰を背景にして始まった行事なのであろう〉と記すのは興味深い。 今は花火大会がメインで、雨になると大騒ぎだが、わざわざ雨の日をチョイスした行事だったのかもしれないのだ。
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織田氏と武田氏との間で「取次」を担当したそれぞれの担当者を記す参考史料として一応「甲陽軍鑑」を掲げる。 「甲陽軍鑑」品第卅三の中からおおまかな内容をメモ。 織田掃部(津田一安)が長坂長閑(光堅)を経由して「佐々権左衛門・赤沢七郎左衛門が参った時に誰に対してお伝えすれば良いのか」と信玄に尋ねたところ、「高坂弾正(春日虎綱)に伝えよ」という回答を得た。しかし、「高坂弾正は信州川中島にいるので連絡に際して何かと不便が多い。信玄の御膝下の中から誰か奏者に申し付けてほしい。外交の概略は高坂弾正にもお伝えする」と掃部から意見が出たため、原隼人佐(昌胤)・跡部大炊助(勝資)に仰付けられたという。
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谷橋啓太「〈研究ノート〉豊臣政権下における長岡藤孝の動向-島津氏交渉を中心に-」(『古文書研究』95号、2023年6月) 豊臣政権期に石田三成とともに島津氏との交渉等を担当した長岡藤孝の「取次」行為の実態や藤孝が求められていた理由を考察した論稿となっている。 藤孝が島津氏との「取次」を担当した理由として、室町幕府存続期から既に藤孝が島津氏との交渉に参画していたこと、また頼朝以来の由緒を有する島津氏が名門細川家の出身である藤孝を重視していたことから島津氏側の意思によって仲介者として選択されたと結論付けている。秀吉が選んだ「取次」担当者である石田三成との対比が明確で興味深い。
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Blueskyを始めてみた。 最近はnoteで自分の考えを論考としてまとめております(主に織豊期関連) 最新の記事では、多くの研究者が主張する「織田信長が家康嫡男の松平信康に偏諱『信』を与えた」ことを懐疑的に捉えることを目的として、 ①『松平記』における松平広忠・徳川家康(松平元信・松平元康)・松平信康の元服および改名記事の比較・検討 ②信長から信康への偏諱授与に関する記述の史料上での歴史的変遷の検討 上記の観点で考察してみました。 もしよろしければご笑覧いただければ幸いです。
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織田信長から松平信康に対する偏諱授与を「敢えて疑う」|徒然なるままに
序論 松平信康は徳川家康の嫡男として永禄二(1559)年三月に駿河にて誕生、織田信長の娘である五徳を妻とし、元亀元(1570)年八月に元服したとされる(『松平記』『浜松御在城記』等、黒田基樹 (1) は元亀二(1571)年八月の出来事と推定)。元服に伴い、岳父信長の「信」、実父家康の「康」を取って実名「信康」を名乗った。 上記の事実から「信康」の「信」は信長からの偏諱授与として説明される場合...
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