ツヤマ
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戦史用のメモ帳として使っています (フォロバしていません)
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wikipediaの戦史関係の記事で、「Otyoufujinn」という問題人物が大量の編集を繰り返していますが、この人物が関与した記事には以下のような数々の問題点がありますので、注意喚起します。
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%...
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ノート:美濃部正 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%BE%8E%E6%BF%83%E9%83%A8%E6%AD%A3#Otyoufujinn%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E8%A1%8C%E7%82%BA%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6
2 days ago
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戦前の流行歌手、上原敏は、第1揚陸隊に所属してニューギニアに出征し、いわゆる「サンドイッチ部隊」としてアイタペ・ホーランジア間に挟まれ、そのまま消息不明となっている。 これに関して、以下のブログによれば、「後日帰還した戦友が妻に語ったところによれば『戦病死ではなく空襲を受けての戦死だった』『亡くなった日は4月30日』」とのこと。
hakameguri.exblog.jp/35470633/
このような証言者が実際にいたのであれば、生還者がほぼ存在しない「サンドイッチ部隊」のうち、第1揚陸隊からは生還者がいたということになる。その後の同隊の運命について、もう少し詳しい証言を知りたいところ。
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上原敏(1908~1944) | 著名人の墓巡り~昭和の偉人と出会う旅~
上原 敏(うえはら びん)歌手1908年(明治41年)〜1944年(昭和19年)1908年(明治41年)、秋田県北秋田郡大館町(現在の秋田県大館市)に生ま...
https://hakameguri.exblog.jp/35470633/
about 8 hours ago
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択捉島に所在した海上機動第4旅団の実体と運用について、樋口季一郎・第5方面軍司令官は以下のように回想している。 「中央は良いアイデアで、良い名称をつけているが、私は海上機動攻撃の能力はほとんどないと考えていた。 したがって同旅団に多くの戦力発揮を期待していなかった。ただし、第27軍がこれをどう運用するかについては干渉しなかった。 方面軍としては、無いよりましであり、かつ兵員数は相当なもので、少しでも兵員数の欲しかった折りでもあり、下手に中央に干渉して取りあげられるようなことは避けた」 (戦史叢書『北東方面陸軍作戦<2>』 p213)
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択捉島に所在した海上機動第4旅団について、戦史叢書『北東方面陸軍作戦<2>』は以下のように評している。(p211~214) 「旅団本来の任務は、その有する機動用舟艇をもって海上を機動し、敵の上陸点またはその付近に逆上陸を行ない、もって進攻する敵を撃滅する、というものであるが、肝心の機動艇が配当されず、代用された漁船も数隻に過ぎず、大発もまた10隻内外にとどまった。 そこで旅団は海上輸送第6大隊(根室)と協定し、同大隊の保有船舶により海上機動力の強化を図るなど苦心して、一応特大発6、大発39、計45隻を胸算できるようになった。(続)
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北千島の防備に就いた海上機動第3旅団は、主力を温禰古丹島に配置したが、この島における同旅団戦車隊の運用について、隊長の勝谷大尉は以下のように回想している。 「戦車を島に揚げることは揚げたが、ハイマツなどのため島内に機動の余地がなく、上陸点の奥地に置いただけに過ぎなかった」 (戦史叢書『北東方面陸軍作戦<2>』 p196)
2 days ago
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wikipediaの戦史関係の記事で、「Otyoufujinn」という問題人物が大量の編集を繰り返していますが、この人物が関与した記事には以下のような数々の問題点がありますので、注意喚起します。
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%...
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ノート:美濃部正 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%BE%8E%E6%BF%83%E9%83%A8%E6%AD%A3#Otyoufujinn%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E8%A1%8C%E7%82%BA%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6
2 days ago
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「戦陣訓」は陸軍の訓令なのに、なぜ海軍将兵にも捕虜を忌避する風潮があったのだろうか、と思っていたのだが、カウラに送られた海軍の一等飛行兵曹の証言を読んでいると、 「『生きて虜囚の辱めを受けず』という戦陣訓は、海軍では読んだことも教わったこともありませんでしたが、日本人の道徳律として、そう考えるのが常識の時代やった」 と。(神立尚紀『戦士の肖像』より) とはいえ、日清・日露の頃は、捕虜になることはここまで忌避されていなかったのだから、その「常識」を形成するのに、やはり「戦陣訓」の影響は小さくなかったと言うべきなのだろうか。
7 days ago
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Otyoufujinnのアカウント凍結について、wikipediaでやり取りがありました。
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%...
今回、凍結を申し立てたジーニハルトさんの言葉遣いが激しかったため(気持ちは分かります)、申立ては不調に終わりましたが、「相手の会話ページで対話を試みる→コメント依頼→伝言板報告やブロック依頼」という手順で対処すれば良いことが分かりました。 当人が過去10年に編集した記事が常軌を逸した分量であり、記事内容と出典の精査などは何年レベルの作業が必要そうですが、いざという時に指摘できるよう、黙って少しずつ個人的な作業を進めておきたく思います。
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ノート:美濃部正 - Wikipedia
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昭和17年6月に日本軍がキスカ島を占領した時、「鳴神島」という和名が与えられたが、これはミッドウェー島が「水無月島」と命名されたことを参考に、6月のもう一つの別名「鳴神月」にちなんで名付けられたのだとか。 命名者は第5艦隊の松木通世先任参謀とのこと。(同艦隊の久住忠男・元参謀の証言)
12 days ago
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陸幼出身と旧制中学出身の陸軍軍人の対立に関して、永田鉄山は「中学出身者は堅い操守がなく、豹変する危険があるから好まない」と述べていたと言われるのに対し、東條英機は陸士19期の石黒貞蔵(東條が歩1連隊長だった時の連隊附中佐)や河辺正三を評価して目をかけたり、総理時代は佐藤賢了や鈴木貞一を重用したり、人物評価に当たって中学出身であるかどうかはあまり意に介していないように思われる。 個人的には、この手のことにはなんとなく東條の方が潔癖そうなイメージがあり、やや意外ではある。
13 days ago
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12月5日と言えば田中新一と佐藤賢了が殴り合った日ですが、これは一応、「軍政と軍令の分離が健全に機能している証拠」と見てよいのだろうか。
15 days ago
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ツヤマ
大木 毅/赤城 毅
16 days ago
このポストについて、旧軍を賛美したい人々にとっては、牟田口とか特攻は抹消したい汚点なので、だからこそ、それを糾弾した高木俊朗はデマを書いたことにしたいのだというご意見を拝見した。 それが実情に近いのだとすれば、彼ら彼女らの「愛国」やら「伝統護持」の薄っぺらさに呆れる。 以前も書いたが、先祖の財産を相続したければ、負債も継承しなければならないのである。
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RP 私も普段からツイッター(現X)で色々なワードで検索して、様々なツイートを拾っているのですが、旧軍を美化したい傾向の方々は、旧軍の恥部をなんとか取り繕いたい、という欲求を抱えているように見受けられます。 そして、旧軍において特に重大な問題点を内包しており、これらの人たちにとって何とかごまかしたい対象が牟田口と特攻ではないか。このことは同時に、この2点を厳しく批判した高木俊朗を、どうにか「デマ作家」に仕立て上げたいという歪んだ動機の元になっているのではないか、というのが個人的な印象です。
16 days ago
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ツヤマ
大木 毅/赤城 毅
16 days ago
もろもろの牟田口弁護本、内容はまったく肯定しないが、売らんかなであったり、政治的な意図があったりと、そういうものを出す動機は推察できる。 ただ、ネットで牟田口弁護論をまき散らしている手合いについては、何を考えているのか、さっぱりわからない。 ゆがんだ承認欲求?
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しばらく前から、堀場一雄大佐の評伝『ある作戦参謀の悲劇』を少しずつ読んでいる。 西部ニューギニア方面の航空要塞構想やヘルヴィング湾決戦論は、この人の関与が大きいのではないかと思っているが、 ・そもそも現実的にこの地域へ航空戦力を集められるのか ・優良な飛行場造成部隊や機材・器材を大量に投入できるのか ・多数の飛行場を短期間で造成できるのか ・戦力や現地駐屯部隊を維持するための物資・人員を継続的に補給し続けられるのか といった実現可能性の面にあまり考えが及んでいないように思われ、陸軍の俊秀と呼ばれた人のはずなのに、と以前からやや不思議に思っている。
21 days ago
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牟田口廉也中将の「ジンギスカン作戦」に関して。 インパール作戦開始前、メイミョウの第15軍司令部で牟田口中将とやり取りのあった報道班員が、以下のようなことを書き残している。 「一夜私が牟田口軍司令官を官邸に訪問した時、こんなことがあった。(中略) 『今のうちに暇でもあったら読んで見給え、なかなかいいことが書いてある』と言って尾崎士郎の小説『成吉思汗』を貸してくれた。無聊の新聞記者を慰める軍司令官の親切に感謝して『ではお借りします』と宿舎に帰ってから本を開いてみた。(続)
28 days ago
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レイテ島の戦いから生還した日本軍将兵について、『陸軍公主嶺学校と星兵団』には、 「八月十五日以降、レイテ島において米軍に投降したものは約二〇名である」 との記述があるが(p178)、どこから引用した情報なのか、以前から気になっている。 いずれにせよ、大岡昇平『レイテ戦記』の「終戦後(カンギポット)山から出て来た者は一人もいなかった」という記述は、古い情報として否定されるべきであろう。 (大岡を責める趣旨ではなく、一人の作家が当時収集できた情報では、それが限界だったということではないかと思う)
about 1 month ago
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そういえば、若林東一大尉と同じ陸士52期の恩賜に、『第六十八旅団奮戦記』という謎の本を書いた山内一正少佐がいますね。 山内少佐は同書で、「第68旅団発足直後の昭和19年7月11日に、自分は旅団参謀に任命されたが、栗栖旅団長や幹部クラスと折り合いが悪く、8月8日に解任され、なかば放逐される形で台湾軍に転出した」旨を述べていますが、同旅団の部隊史的な本である『陸軍公主嶺学校と星兵団』では、上記の参謀在任期間も含め、山内少佐の存在は完全に抹殺されています。 山内少佐は当時の旅団の状況をかなり具体的に証言しており、旅団の関係者であることは間違いないように思われ、謎としか言いようがありません。
about 1 month ago
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牟田口、板垣の次は若林東一とのこと。 現場指揮官としては一方の極端なケースなので、もう一方の極端なケース(例えば、以前触れた田中稔少佐とか)も一緒に把握しないと、旧軍に対するバランスの取れた見方にはならないと思う。
about 1 month ago
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ルソン島で戦った第19師団(虎兵団)で、林銑十郎大将の四男の林錦平大尉が戦死していることを知った。 林大尉は歩兵第73連隊の連隊旗手を務めた後、同連隊の第1大隊第3中隊長としてルソン島に出征。既に師団が甚大な被害を受けていた昭和20年5月下旬、第1大隊の残存兵力200名からなる混成中隊の隊長に任命され、タクボ峠の最前線に向かう。6月1日、米軍の砲撃により個人壕で戦死。没後少佐。(続)
about 2 months ago
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1~2か月ほどツイート(ポスト)が途絶えている時は、大体仕事が忙しい時です。 (SNSは見ています)
3 months ago
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ツヤマ
大木 毅/赤城 毅
4 months ago
イギリス側の一部によるインパールの牟田口評価は、スリム派(極東派)のモンティ派(欧州派)への巻き返しの一環という文脈もあるのですよ。
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wikipediaで悪質な編集を繰り返している「Otyoufujinn」という問題人物が、今度はチャンドラ・ボースのページに大量加筆した上、相も変わらず「インパール作戦ではディマプールに進攻すべきだった」という珍説を書き込んでいる。 この人物は、インパール作戦の作戦命令すら読んだことがなく、作戦の目的さえ分かっていないのではないか。 ただ、こういう問題人物が、wikipediaを独りよがりな研究発表の場に悪用していることで、wikipediaの信用度そのものがどんどん下がっており、そのことは次第に有名になりつつあるように思う。
ja.wikipedia.org/w/index.php?...
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「スバス・チャンドラ・ボース」の版間の差分 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B9%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B9&diff=prev&oldid=106260281
4 months ago
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『今村均回顧録』に、小泉清少尉という茶目な同期の人が登場していましたが、以下の人でしょうかね。
shirakaba.link/betula/%E5%B...
少佐で予備役編入は早すぎる気がしますが、大正14年なら宇垣軍縮の影響でしょうか。今村均(陸大首席)の少佐進級は大正11年、中佐は15年なので、思ったほど進級スピードに差は付いていない印象。 この小泉少尉、今村の回顧録には、予備役中佐時代に中国戦線で兵站業務を行っていた様子が描かれていましたが、大戦末期の昭和19年9月には新潟聯隊区司令部部員に発令されていたのですね。(異動通報では少佐なので、今村の「中佐」は、あるいは記憶違いか)
4 months ago
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(承前)なお、火野葦平は、田中稔少佐について以下のように書き残している。 「隊長室に行くと、稲田中尉と少佐の肩章のある背のひくい将校とが話をしてゐた。丸顔を髯で埋め、ぐるりとした丸い眼でまじまじと見る。稲田中尉から田中少佐だと紹介されて、この人かともう一度見なほした。作間部隊の大隊長で、兵隊たちが、敵は英軍ではなくて田中少佐であるといつてゐるといふことをきいたことがある。 一度も中隊、陣地を見まはらず、天気のよい日で、飛行機の来ない日に迎へをよこせといつた、また、敵機が来ると一番に防空壕にとびこみ、こしらへた二人の副官を入口の両側に張り番させたともきいた。(続)
4 months ago
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インパール作戦当時、前線への進出を命じられても一向に出てこなかった大隊長、田中稔少佐(歩兵第214連隊第3大隊長、陸士38期)について、関連書籍を見ると、以下のような興味深い記述がある。 ・歩兵第214連隊史によれば、田中少佐は昭和19年6月1日にようやく連隊本部に到着し、その場で罷免。その直後の6月10日に、インダンギーで戦死したとされている(p748、1344) ・ところが、報道班員の火野葦平の日記には、6月22日に、憲兵2名に監視された田中少佐に、3299高地で面会したとの記録がある (火野葦平『インパール作戦従軍記』p219-220)(続)
4 months ago
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山下奉文の「イエスかノーか」については、本人は「敗戦の将を恫喝するようなことができるか」と述べていたことが広く知られているが、かつて山下の副官を務めた山内俊太郎大尉は、以下の証言を残している。 「閣下に、水師営のように、もちっとおとなしゅうやれんかったとですかと質問すると、閣下は、いやあ、新聞は勝手なことを書きおるとおっしゃったあとで、あのときはこっちの歩兵砲はタマが三発しかなかった。このさい、なんとか降伏させにゃならんと思って、最後は威圧でやった、とおっしゃっとりました」 児島襄『史説山下奉文』より。色々な証言が残っているものです。
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戦時中にガ島の船舶増徴問題で殴り合った陸軍の田中新一と佐藤賢了ですが、戦後は一緒に酒を飲んで、 「俺は一発しか殴らなかったのに、君は三発返した」 「俺の優しい手で三発殴るより、あんたの一発の方がずっと痛かった」 などと言い合っていたとか。仲良いですね。 (佐藤賢了『軍務局長の賭け』より)
4 months ago
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陸大の勤務歴が長かったり、総力戦研究所長を務めたりしたこともあってか、理性的な軍人というイメージのある飯村穣中将だが、終戦時には「東京防衛軍」という、創作物に出てきそうな名前の軍の司令官を務めていた。 この東京防衛軍は昭和20年6月23日に戦闘序列発令、皇居と山手線内くらいの地域の防衛を任務としており、隷下部隊は警備歩兵18個大隊、工兵隊、通信隊、特設部隊など。決戦生起時にはさらに数個師団や砲兵部隊などを増強する予定だったというが、これで「1年持久しろ」という作戦命令(十二方作命甲第一二号)は、戦力的にも地形的にも無茶ぶりが過ぎるのではないかと思う。飯村中将はどう思ったのだろうか。
4 months ago
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例のwikipediaを荒らしてきた人物が運用していると思われるX(ツイッター)のアカウント、今日は「特攻の戦果を全国民が知るべき」などとマルチポストして暴れまわっている。 まともな状態の人間とは到底思えない。(以下URL参照)
search.yahoo.co.jp/realtime/sea...
4 months ago
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大木先生の『太平洋戦争』を拝読。 冒頭のインパール作戦の解説が、ごく真っ当な内容で感動しました。この作戦に関しては、「専門家」を自称しているはずの方が、戦史叢書の内容すら押さえず、トリッキーな結論に走ろうとするのを散々読まされてきたので、こういう当たり前の内容を拝見するだけで安堵感が大きいです。
4 months ago
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今夏に出た大戦関係の本は、波多野澄雄『日本終戦史 1944-1945』、高杉洋平『帝国陸軍』、貴志俊彦『戦争特派員は見た』は購入済み。大木先生のマンシュタイン本も購入済み、『太平洋戦争』も購入予定。 黒沢文貴『大戦間期の日本陸軍』、筒井清忠『昭和期の陸軍』、林英一『南方抑留』辺りは、予算との兼ね合いで後日購入するかも。
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黒田重徳中将は、比島関連の戦記を読んでいると押しなべて評判の悪い人ですが、陸軍三次長の一つである教総本部長を務めていたり、南方軍の総参謀長を務めていたりするので、組織内部で評価される何かがあった人ではあるのだろうか。
4 months ago
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第14軍司令官が旧制中学出身者(本間雅晴、田中静壱、黒田重徳)で揃えられているのは、中学で英語を学んでいる人材に旧米領の軍政を任せる意図だったのだろうか、と思っていたのだが、考えてみると第16軍司令官(今村均、原田熊吉、長野祐一郎)も旧制中学出身者ばかりですね。単なる偶然なのだろうか。 ちなみに英領マレーは、第25軍の斎藤弥平太と、第29軍の石黒貞蔵が旧制中学出身ですね。
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終戦後にも死者が…戦没者資料デジタル解析で見えた戦争の傷痕
www3.nhk.or.jp/news/html/20...
NHKによる良記事。戦没日時・場所をプロットする手法は、インパール作戦の特集番組でも採用していましたね。 マニア的に言うと、1944年6~9月のビルマの死者数は、インパール作戦(歩124)よりも、フーコン(筑紫峠、カマイン、モガウン)、ミイトキーナ、雲南(龍陵、拉孟、騰越)の方が数としては多いのではないかと思います。
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https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250802/k10014881551000.html
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ツヤマ
大木 毅/赤城 毅
5 months ago
死んでいった特攻隊員たちは、殉国の士ともてはやされたり、自己犠牲を讃えられたりすることではなく、自分たちは何故こんな不条理な死を強いられたのか、その答えを探しつづけることを、後世に求めているとのだと、私は思っている。 「手を振りて 知覧翔び征く 特攻機 君の笑顔に 昭和責めらる」(藤原長司)
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ツヤマ
大木 毅/赤城 毅
5 months ago
昨日刊行された、高木俊朗『特攻基地 知覧』(角川新書)に寄せた拙解説、ウェブマガジン『カドブン』でも公開されました。
kadobun.jp/reviews/revi...
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【解説】再び示された存在意義――高木俊朗『特攻基地 知覧』【新書巻末解説:大木 毅】 | カドブン
高木俊朗『特攻基地 知覧』(角川新書)の刊行を記念して、巻末に収録された「解説」を特別公開!
https://kadobun.jp/reviews/review/entry-120891.html
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『特攻基地 知覧』の旧版は持っていましたが、大木毅先生の解説が目当てで、角川新書の復刊版も買いました。 碩学の先生がこの解説のような見解を示して下さることは、大変素晴らしいことと思います。「動機が透けて見える」悪質な論者は今後も現れるにせよ、それら以外の良識的な読者への説得力という意味で。
5 months ago
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大戦中のセレベス島は、前線から離れていたこともあり、兵団単位の戦力としては、独立混成第57旅団(海没後再建)があるのみだった。 しかし、昭和20年5月以降、隣のボルネオ島に連合軍が上陸すると、セレベス島西南部のシンカンに司令部を置いていた第2軍は、7月中旬からセレベス島の在留邦人約4,000名を現地臨時召集し、速成教育を実施するとともに、西南部セレベスの各部隊を編合して特設旅団1個を編成している。 この時期の濠北方面では、ハルマヘラ島でも昭和20年5月に現地部隊で独立混成第128旅団を編成したり、マノクワリでも「勢独立第1旅団」(勢は第2軍の兵団文字符)という兵団を編成していたようですね。
6 months ago
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第15軍がメイミョウに司令部を置いていたことは有名だが、第15軍だけでなく、南方軍のダラット、第2方面軍のトモホン、第25軍のブキチンギのように、南方各軍は高原の避暑地として知られる場所に司令部を置いていたケースが結構多いように思われる。
6 months ago
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西部ニューギニアのサルミに進出した第36師団は、その主力が昭和18年11月23日に中支を出港、27日高雄入港、29日出港。しかしその後、船団の行方は皆目不明となり、船団の空中護衛の責任を有する第14軍は深く心配する事態となった。 しかし12月4日、船団は突如マニラに入港。同師団は「敵側は暗号を解読していること明瞭」として指定の航路を採らず、しかも無線を封止して航行してきたのだという。第14軍は「野蛮な師団だ」と憤慨したが、結局、師団は無傷でニューギニアに到着している。(戦史叢書『豪北方面陸軍作戦』p233-234)
6 months ago
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東部ニューギニア戦線で戦った第48野戦道路隊の部隊史的な本である『東部ニューギニア 野戦道路隊の追憶』より、ニューギニアの道路建設事情について。 なお、同隊は昭和18年4月にハンサに上陸。マダン~ハンサ間で道路建設に従事した後、セピック河の大湿地帯を転進し、昭和20年5月以降は歩兵として豪軍と交戦。同隊将兵338名のうち生還者は22名、生還率7%。 「ニューギニア作戦に最も必要なものは輸送、道路の確保であった。我々野戦道路隊が数隊、満州から転進したのもそのためである。然し、ニューギニアの道路は、一度スコールに遭うと道路も橋も一たまりもなく埋められ流されてしまうのである。(中略)
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一木千秋『アシン』に、気になる逸話が一つある。 第14方面軍司令部の参謀部第2課(情報)に、華僑工作を担当していた大木中尉という人がいた。この人は戦前スペイン大使館にいた外交官で語学堪能、召集されて軍人となる。昭和20年2月頃にゲリラに捕虜にされるも、クリスチャンだったため助命され、終戦後、収容所で著者と再会。 このように数奇な運命を辿った大木中尉だが、本書によれば「終戦時陸軍参謀総長をした梅津大将の甥である」と。 大分県出身で年齢は30歳位、という本人の特徴からすれば事実の可能性があるが、果たして本当なのだろうか。
6 months ago
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ツヤマ
大木 毅/赤城 毅
6 months ago
貧すれば鈍するというのか……。 編集作業に手間暇がかかる歴史の新書は、一部の大手や老舗以外は、どこも現場がやりたがらない。しかし、需要は確実にあるというので、無責任な版元が飛びつき、編集プロダクションに丸投げして、ろくに校閲もせずに出すことが増えていると聞いた。 アレとかコレはそういうことだったのかと合点がいき――かなり憂鬱な気分になっている。
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第14方面軍参謀の一木千秋少佐の著書『アシン』によれば、「支那事変時代、石原莞爾第一部長の下で作戦課長の武藤大佐、作戦班長の西村少佐はことごとく対立し、石原部長は西村少佐の計画を採用することが多」かったのだという。 そして、これが伏線となって、ルソン戦初期の作戦指導でも武藤参謀長と西村参謀副長は衝突し、結局西村副長は比島を去って東京に帰還することになったのだとか。 西村敏雄は、支那事変は不拡大派だったんでしょうかね。経歴的には、対ソ戦を重視する立場であってもおかしくない気はしますが。
6 months ago
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西部ニューギニア・サルミで戦った第36師団の部隊史『雪第三十六師団戦誌』によれば、同師団は昭和19年8月末以降、第2軍との通信が途絶していたとのことだが(同書p69)、同じく在サルミの野戦高射砲第53大隊通信班の武内賢一軍曹の著書『軍旗なき部隊の死闘』によれば、 「師団の通信機能は、受信は出来ていたが発信が出来なかった。それは第二軍でも承知のようだった」(p189) 「三十六師団では無線傍受をしており、雪部隊新聞も発刊していた。したがって断片的ではあったが、日本軍と日本の状況はそれなりにわかっていた。広島と長崎に特殊な爆弾が投下されたことも知っていた」(p188) とのことだった模様。
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丸山静雄『インパール作戦従軍記』(岩波新書)に続いて、阿利莫二『ルソン戦―死の谷』(同)も復刊されるのですね。良い本が復刊されて、素晴らしいことです。 どちらも紙の本は旧版を持っているので、できれば電子版を出してもらえたら嬉しい。
6 months ago
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ツヤマ
大木 毅/赤城 毅
6 months ago
なお、高木俊朗の書いたものは「小説」だと貶めるような手合いは、だいたい「小説」を嘘っぱちぐらいの意味でしか使っていない。 彼ら彼女らにあっては、「小説」も舐められ、馬鹿にされているのである。
add a skeleton here at some point
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西部ニューギニアのサルミで戦った、第36師団歩兵第223連隊長の吉野直靖大佐は、任官から大隊長までの二十余年間、ずっと宇都宮の歩兵第59連隊で勤務していたとか。 ここまで長期間異動がないのは、無天の将校としても結構珍しい気がします。どういう理由だったんだろうか。(『雪第三十六師団戦誌』まえがきより)
6 months ago
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板垣征四郎の新書が出るという情報を見たのだが、この出版社は、以前出した同著者の本をきちんと検証するのが先ではないのか。
7 months ago
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戦車第15連隊がカーニコバル島に配置されていたという記録を見て、機動力を生かせない孤島に置くより、戦車第14連隊とともにインパール作戦に参加していたら多少は戦力になったのでは、とも思ったが、上級部隊がビルマ方面軍ではなく第7方面軍なので、転属も容易ではなかったのでしょうね。 そもそも編制が軽戦車2個中隊基幹(軽戦車約30両)だったらしいので、部隊の戦力も充実していたとは言えなかったのかもしれませんが。
7 months ago
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