「常識の範囲内にズレがおさまっているから気が付かないだけ」というのは、コミュニケーションにも当てはまるのではないか。わかりあえなさが「比較的常識の範囲内に収まっている」から「わかりあえた」という錯覚を起こし、それが一定程度大きくなると「わかりあえなかった」という感覚が生まれる。「わかりあえる」はいつだって錯覚だ。ただ、それは単なるニヒリズムじゃない。ズレがあってもなおコミュニケーションが成立するということ自体が希望であり、僕たちを永遠にコミュニケーションの中に位置付ける役割を果たす(わかりあえたら、その瞬間会話は終わる)
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本当にそう そう思う
こういう観念読むのも好きすぎる
about 21 hours ago