水谷孝は「詩人」であった。裸のラリーズは彼の詩/声/言葉をフィードバックノイズに満ちた空間で生成するための「状況」装置であった。「状況」であるが故に基本的に録音は困難ではあった。むろん水谷自身は録音を否定していたわけではないだろう。彼は何度もスタジオレコーディングを試みている。だがそのどれもが納得いく出来ではなかったが、3作のみとはいえCD /アルバムをリリースしている。では彼が求めた「ノイズ/状況」とはどのようなものであったのか。おそらくは演奏している彼の体が体験していたノイズの地鳴りそのものではなかったかと想像する。「そこ」に「声」が消されそうになりながら、存在すること。「声」の存在論。
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